さて、武蔵野美術大学美術館を巡って最後に覗いてみました展示室は、

「部屋と庭 隔たりの形式」という小企画展となっておりました。

 

私たちが生活する「部屋」には、家具や日用品といった見なれた事物が偏在すると同時に、目に見えない時間や記憶が折り重なり、私的な気配が漂います。そして内的な部屋と接する「庭」は、外的空間へと接続する中間域であり、外と内への視線が交じりあう曖昧な領域として、世界と私たちを不確かに隔ちます。部屋は内的な小宇宙を包みこむ容れ物のように、庭はその先にある外界との距離を確かめる隙間のように、私たちの世界をかたどる形式として、存在しているといえるでしょう。

フライヤーにはこのようにいささかとっつきにくい紹介文が載っていましたけれど、

よくよく読んでみればなるほどねとは思うところです。「部屋」という空間には、

そこにモノが置かれてあるにとどまらない「何か」があるように思えるものでして、誰かが住まっているとなれば、

その人(それがどんな人であるかは知らずとも)なりのキャラクターが部屋には宿っている感じがしたりもしようかと。

 

その宿っているものは使う人の影でもありますから、当人であれば

自らの影と出会うことで安心するというか、やすらぐというか、他人にとっては

「ああ、他人の部屋なのだな」と感じる違和感?の根源にも、部屋に宿る影はなっていようかと思うところです。 

 

一方で「庭」の方を考えてみますれば、敷地的には持ち主の所有にかかる部分であって、

いわばプライベートな空間であるわけですが、その実、「外と内への視線が交じりあう曖昧な領域」とはまさにその通り。

庭の設えにも寄るとはいえ、庭にいることとひと目に触れることとはイコール、ないしはニアイコールではなかろうかと。

その曖昧な空間にもやはり影は宿りますが、外から見ている分には

他人の部屋の中に入り込んだときに抱く感じそのままではないですよね。

やはりオープンさが影の濃さを薄めているといいますか。

 

部屋にしても庭にしても「そうしたものである」ということに、普段は全く意識せずにいるわけですが、

そのこと自体に目を向けて見ませんかね…というのが、この展示であったということになりましょうか。

展示室の中はこんな感じになっておりましたよ。

 

 

7人の現代作家によるという作品が何気なく置かれておりまして、

ここまでに思い巡らしたことを考え併せつつ、ひとつひとつを見ていけばそれぞれに

またさらなる思い巡らしに繋がったとは思うところながら、「ここまでに思い巡らしたこと」というのも実は

後に振り返って考えてみればということであって、後付けなのですな。

一度にあれこれの展示を見て来たことで少々頭が疲れ気味であったのでしょう…。

 

そんな状態の中で、その場でふと思いついたことと言えば「おや、あちこちにゴミ箱が…」ということ。

上の写真には写真の付いたコンテナ型をした黄色いのが見えてますが、これも作品だったのですよねえ。

 


 

会場内のところどころにぽつんぽつんと種類の異なるゴミ箱が置かれているさまは、

部屋ごとに違う雰囲気に合わせてゴミ箱を選ばれることのあらわれでもありましょうかね。

そして、ゴミ箱の中を覗けば空ではないけれど、わざわざゴミらしいゴミを詰め込んであるわけでもなく…。

 

ですが、ゴミ箱を覗き見るという行為は(もちろん自分の部屋においてでなくしてですが)それが置かれた部屋を見る以上に

持ち主のさらに濃縮した影を見るような気がしますですね。だからこそ「覗き見」してしまうわけでして。

 

ここでは無造作に破った(と思しき)紙が一枚入っているというか、わざわざくたくたに見えるようにして固定してありますが、

一見したところでは「空ではなく、ごみが入っておる」と分かるものの、それだけ?という肩透かし感も。

いったい何を期待していたのか…と思うところながら、そうした思いが去来することにつながるという点で

やはりこのゴミ箱はアートであるな、と思ったりするのでありますよ。

 

アートは発想でもあって、その源はどこにでもあるのですよね。それに気付くかどうかということですなあ。