多摩美術大学美術館を訪ねて抽象画を見た話を、ちょいと前にしましたですが、
そのときに触れなかった一枚から思い巡らすところなどをまた。
これまた先日に訪ねた宇フォーラム美術館で見た展示で、美と数学との関係などを考えたところですけれど、
そんなところから思い出した一枚でもあります。
谷川晃一作「ナナの音楽」という作品(画像はフライヤーからの部分)でして、
ひと目見たところではかわいらしさを思うところではあるもの、さまざまな形が置かれたところからは
ミロやカンディンスキーを少々思い出したりもするわけです。
でもって思うところは、画面を構成する要素要素の配置にリズム感があるなあということ。
これはミロやカンディンスキーなどでも感じるところなのですけれど。
美術と数学、その関わりは数学と音楽の関わり(これまた「ドナルドの算数マジック」がやさしく説いてますね)を通じて
美術と音楽との関わりとして導くこともできましょうか。そもリズム感とは音楽的な動きを示すもので、
絵画作品の中には敢えて動きを再現しようとした試みがあったりしますけれど、そうではない静止画であっても、
そこにリズム感を見出だす、リズミカルな印象を受けることはありますですね。
そう考えると、いささかの飛躍にはなるとはしても、ある絵の中に、そこには「音楽」があるということもできるような気が。
「音楽」は必ずしも音が鳴っていることではなくして、そこに「響きあって『ある』」ことなのかもと思えたりしたわけです。
まあ、上の作品の「ナナの音楽」というタイトル付けの背景に、そうした考えがあったかどうかは分かりませんけれど。
数学者のライプニッツは、こんなことを言っていたようですなあ。
曰く「音楽は人間が無意識に数を計算することで得られる魂の快楽である」と。
いかにも数学者らしいところと思うものの、数の計算、すなわち数学の整然とした美しさと同じような美しさを
音楽に見出していたのでしょうけれど、絵画(あるいは他の美術作品)においてもやはり、
作品の中になんらかの均衡や調和を見出だすと、そのことに類似性を感じるのかもしれませんですね。
ついでに引用をもうひとつ。
かつて読んでみた『音楽家はいかに心を描いたか』という放送大学のテキストからの一節です。
音楽は、聴く者の心に語りかけ、聴く者の心に浸透し、それを一定の方向に向かって動かす。その意味では、 音楽は一種の「言語」であり、音楽作品は「音楽」という特殊な「言語」で書かれたメッセージであると言える。 音楽作品が人類の知的遺産であると主張できるのも、音楽が聴く者の心に働き掛ける力を持っているからである。 しかし、音楽という「言語」の構造を解明することは難しい。そもそも、「音楽」という「特殊言語」がもらたす 効果を日常「言語」で説明することができるのであれば、「音楽」という特殊な「言語」が存在する必要はないではないか。
一般に、「音楽」は動的であり、「絵画」は静的であると考えるわけですが、
これまで触れてきたようなことを思うにつけ、この引用にある「音楽」を「絵画」(あるいは「美術」)と置き換えても、
そのままに受け止めることができるような気がしたりしておりますよ。