ずいぶんと前のNHK「日曜美術館」だったでしょうか、
そのときすでに相当の高齢となっていた画家・中川一政が岬にキャンバスを立て風景画を描いていた映像が
やけに印象に残っておりますが、その中川が後半生、アトリエを構えたのが真鶴であったのですなあ。
そうした関係もあってでしょう、真鶴半島の尾根筋の高台に町立中川一政美術館は建てられておりまして、
予て一度は行ってみようと思っておりましたですが、夏ごろに訪ねたたましん美術館で
中川作品と相対し、また画家の言葉にも触れたところから機会を伺っており、このほどようやっとという次第です。
「町立」ということだけで舐めてかかるのはお門違いと、すでに湯河原の町立美術館で思い知ったばかりですが、
こちらの美術館もたいそう立派なものでありましたですよ。
「中川一政 美の探訪」という展示テーマでしたけれど、97年余の長い生涯の中でたくさんの薔薇を描いた画家だけに
フライヤーにもやはり薔薇の花の絵がありましたなあ。
美術学校にも行かず洋行もしていないことで、画家として一人前と見られないことを嘆く中川ですけれど、
その分、自らの思うがままに溢れる思いをキャンバスにぶつけていくような筆致は、たとえ薔薇を描いても変わらない。
フライヤーにある「薔薇」は82歳の時の作品ながら、この印象はそのままですなあ。
その出発点は、このようなようすであったそうです。
文芸雑誌『白樺』を通じて西洋美術に触れ、身近な景色を写生することから出発した画の道では「自然の美しさ」を見出しました。
当時の『白樺』の影響力たるや、すごいものがありますなあ。
独自目線で西洋美術の新潮流をどんどん紹介していったわけですが、そこでゴッホに接することとなったのは
大きな出来事であったことでしょう。ダイナミックなタッチはやはりゴッホを意識している?と思ってしまうところです。
そんな中川が画家を志したのは21歳のときであったそうですから、少々遅めの決断。
もちろん、それ以前にも心に秘めるものはあったのでしょうけれど、
なにせ美術学校に通うことなく過ぎていった十代はもんもんとしたものであったのかもしれません。
21歳の転機とは、処女作であるという「酒倉」が岸田劉生の目にとまり、評価を受けたことであるとか。
岸田は中川の2歳年上ながら十代のうちに文展に入選、中川作品に目をとめたころには
『白樺』に関わる文化人たちとの交流があったということですから、
それまでたったひとりで格闘していた中川にとって岸田はまばゆい存在に見えたかもですね。
後に、中川は岸田が結成した草土社に参加することになります。
ところで、中川画伯のこうした経歴あればこそかもしれませんけれど、
言葉で伝えることも分かりやすいような(例えば、岡本太郎の「芸術は爆発だ!」的なものでなく)。
こんなひと言はいかがでしょう。
画は芸術ではない。画の中に呼吸し、うごめいているのが芸術なのだ。画はきたなくてもよいのだ。それより生きているか、死んでいるかが問題だ。
これは生前、中川画伯が何度語った言葉ということでして、「画はきたなくてもよいのだ」の部分を穿って見れば
美術教育を受けなかったことへの自虐とも思ってしまうところながら、それは読み過ぎでありましょう。
先に引き合いに出した岡本太郎の言っていた「醜悪美」、奇しくもそれに通じるような気がするところです。
とにかく見た目だけ(それを「画」と言っているのでしょうか)では、それは芸術ではない。
その中に息づくものを見てほしい。そこにこそ芸術はあるのだから、と見る側を導いておりますなあ。
されど、そうはいっても絵をどう見たら…というときに、中川画伯にはさらに「画の見方」という一文もありまして。
分からないと思う者を置き去りしてはいないのですよね。ほんの一部分を引いてみることに。
自分のわかる程度で素直に見てゆく事です。理屈ぜめにして見てゆかぬ事です。自分が成長すればわかるだろうと思う事です。そして成長する事を考えた方が近道なのです。
成長すれば…と見て、「すでにいい歳になっているし、今さら」とも思うところながら、
これが97年の長い年月を生きた人からの言葉と思えば、平櫛田中ではありませんが「これから、これから」と思ったり。
とまれ、そういうつもりで美術館をのんびりじっくり見て回ったものなのでありますよ。
わさわさしていない美術館で絵に向き合う。それこそがきっと自分の成長の分かる瞬間かもしれません。