宮廷麺」なるものを食しに小平市まで自転車で出掛けましたですが、

ほんの近所に平櫛田中彫刻美術館があるものですから、

たびたび訪ねてはいるものの、やはりちと立ち寄ってきたのでありますよ。

 

現在はまた展示が変わって、

「生誕200年 森川杜園—平櫛田中が敬愛した彫刻家—」という企画展が開催中、

いつものようにゆらりと見て回ってまいりました。

 

 

平櫛田中は岡倉天心に心酔していたわけですけれど、天心自身は彫刻家ではないものですから、

作品創造に対する漠とした(?)影響は与えられても、作品そのものを創るプロセスといいますか、

技法ですとか発想とかは拠りどころが別にあることになりますですね。

 

そこに平櫛田中が敬愛した彫刻家として登場するのが森川杜園であるというのですが、

はて、森川杜園とはどんな人であったのかと探ってみますれば、奈良一刀彫の人であると。

奈良人形とも言われる伝統工芸なのだそうですなあ。

 

フライヤーの鹿でも分かりますように、写実へのこだわりよりも対象を大づかみに彫り上げて、

彩色が施されてある。このあたりは田中の代表作「鏡獅子」にも影響しているようでありますよ。

 

もっとも、田中作品の彩色は「鏡獅子」ばかりではありませんけれど、

杜園に対しては自ら作品をコレクションするまでの関心を寄せていた田中ですから、

試みる気持ちは早くからあったのかもしれません。

 

とまれ、そんな森川杜園の作品は、上に見る鹿と対になって展示されていたヤギを見ても

(鹿と同じくらいのでっぷり感があるものですから、あたかも牛であるかのようで)

実にかわいい造形なのですよね。人形の系譜に連なるものと思えば、なるほどと思うところです。

 

と、ここで「はて…?」と思い至ることは「人形」と「彫刻」はどう違うのであるかということなのですね。

「彫刻家」といえば即ち「芸術家」と目され、これが「人形作家」となると(ともすると)「職人」とされたりする。

そこらへんの捉え方の機微は?ということでありまして。

 

この辺のことにつきまして、宮内庁三の丸尚蔵館HPの、

2004年に開かれた展覧会「近代日本の置物と彫刻と人形と」に関するページの記述を引いてみることに。

古くから人間は、ひとや生きものの姿をさまざまな立体の像にかたちづくってきました。そして、これらは、今日ではあるものは彫刻、あるものは人形と呼ばれ、それぞれ親しまれています。
しかし、「彫刻」という言葉は、明治期以降にひろく使われるようになった新しい用語であり、明治初期には、人形以外の立体像のほとんどを「置物」と称していました。現在、三の丸尚蔵館に引き継がれている立体像のほとんどの作品名には、古くは「置物」という名称が付けられていたことがわかっていますが、これは、明治初期の日本人の立体像に対する考え方をそのまま反映してきた結果にほかならないのです。
これに対して、およそ明治のなかほどから、日本の美術界では西欧美術の考え方を受け入れることで、置物と彫刻を漠然と分けはじめるようになっていきました。 それでは、近代日本の置物と,西欧風の彫刻の違いはどこにあるのでしょうか。そして、両者を区別する考え方は、具体的には、どのような背景のもとで生みだされたものだったのでしょうか。実際には、近代日本の彫刻のなかには、置物と区別をつけることが難しい作品が少なくありませんが、これらは、どのように扱ったらよいのでしょうか。
本展は、こうした置物と彫刻をめぐる問題から出発しつつ、置物や彫刻と重なり合う分野の近代「人形」作品をも視野に入れて、近代日本の伝統派の彫刻作品の特質とその歴史的な意義を改めて考え直してみようとするものです。

この展覧会に気付いていれば歴史的意義を改めて考え直しに出かけたところながら、

あいにく今となってはそうもいきませんので、この紹介文から考えるをめぐらすばかりですが、

「彫刻」という言葉が明治以降に広く使われるにようになったとある一方で、

そも「芸術」という言葉、あるいは今それと受け止められるような意味合いにおいてその言葉の使用は

やはり明治期以降、西洋の影響が入って以降なのではなかろうかと。

 

ですので、「人形」と「彫刻」を対置して考えることには元より無理があるのかもしれませんですね。

江戸期までは絵画も彫刻も、工芸として捉えられていたのでしょうから。

日本では何らかの用途のあるものへの装飾なのですよね、そもそもが。

絵で言えば掛軸だったり、屏風だったり、ふすまだったり、それそれに本来の用途があるわけで。

 

彫刻作品としても、本展で展示された森川杜園による数々の根付を見るにつけ、

絵と同じような受け止め方ができるように思ったものでありますよ。

根付として用いるものに施した装飾が、彫刻作品なのですものね。

 

それでも、上の引用文に人形は「置物」と称されていたとあることを見ますと、

「置物」は文字通り置いておくことを用途としている点で、

予めそれそのものが置かれて愛でられることを前提にしていたようにも思うわけでして、

そうなると他の工芸品以上に人形は、その後の意味合いにおける芸術に通ずるところがあったのかもと、

そんなふうに考えたりするのでありました。