東京・原宿の太田記念美術館で「江戸の土木」展を見たことから、お江戸の橋めぐり状態になっておりますが、
お江戸の時代、隅田川には5本の橋があったということで、架橋順に千住大橋、両国橋をたどって、その続きになります。
隅田川で三番目に掛けられた橋というのが「新大橋」でありまして、
ついつい「新」と付くからには新しいと思ってしまうところですけれど、
パリの「ポンヌフ」が字義的には新しい橋、新橋であるにもかかわらず実は現存最古の橋であるてなことと
印象としては似てもいるような。
先に「両国橋」が庶民の言い慣わしがその名の元であることに触れましたですが、
元来は単に「大橋」ということであったようなのですね。
そこで、両国橋の造られた橋は「新」大橋であると。宜なるかなですなあ。
架橋されたのは元禄六年(1694年)ということです。
そんな新大橋の姿を見るに最も知られた作品としては、
やはり歌川広重の「名所江戸百景」から「大はしあたけの夕立」でありましょうなあ。
いきなりざぁーと来た夕立に人々が足早になる、いかにもな情景を描いていながら、情趣も豊かな印象です。
ちなみにタイトルにある「あたけ」というのは、当時のあたりの地名「安宅」のことであるそうな。
幕府の船蔵があり、安宅丸なる船が係留されていたからということでもあるようでありますよ。
新大橋は明治になって小林清親も「東京新大橋雨中図」で描いていますけれど、
「明治になっても、これ?!」というほどに広重描くところの江戸期の橋と変わらぬ佇まいのような。
なんでも新大橋は水害に遭うこと数多く、幕府としてももはや橋の保全は一旦諦めたとなるも、
やはりそこに橋があって便利にしていた人たちの声を無視することもできず、橋は存続したようですが、
どうせ流されるならこの程度の橋でいいか的に、素朴なままの橋が明治の初めまで残ったのかもですなあ。
さて、隅田川の橋で4番目に登場するのが「永代橋」だということで。
架橋されたのは元禄十一年(1698年)、五代将軍徳川綱吉の50歳を祝して造られたという話でもあり、
「永代」という橋の名は綱吉の長寿慶賀とともに、徳川の世が末永く続くようにということでもあったのでしょう。
当時としては最も下流に位置する橋だけに隅田川に架かる橋の中では最長の207メートル、
川を行き来する舟とは違って大きく帆を上げた舟が海側にたくさん描かれている、
広重の「東都名所 永代橋深川新地」あたりで様子を偲ぶことができますですね。
そして、江戸の世に隅田川に掛けられた橋としては最後の5番目となるのが吾妻橋ということで。
完成は安永三年(1774年)ですが、市民の側から幕府に建設の許可を受けて造られた民間事業の橋なのだとか。
管理もまた民間であるため、ひとり二文の通行料を取っていたそうですが、武士はこれを免除されていたと。
何やら身分社会を思わせるところながら、江戸の人口構成から言って圧倒的に町人が多かったのですから、
武士から通行料を取れないことがさほどの痛手になることは無かったでしょうな。
とはいえ、町人からすれば「さむらいはいばってやがって」とはなりましょうけれど。
てなことで、江戸時代に架かっていた隅田川の橋をめぐってきましたけれど、
川や運河も含めて水路の多かったお江戸には、他にもたくさん橋があり、
また展覧会タイトルに「江戸の土木」とありますように、土木工事は架橋ばかりではない。
ではありますが、今回展に関してのお話は取りあえずこれまでということで。