またまたTV番組のお話はたっぷり周回遅れですけれど、Eテレ「100分de名著」9月放送分、
ダニエル・デフォー『ペストの記憶』をようやっとこのほどまとめ見したのでありますよ。
『ペストの記憶』を書いたダニエル・デフォーは、もっぱら『ロビンソン・クルーソー』の作者として知られますが、
他にも著作はあるものの、2020年の特殊な状況下、期せずして『ペストの記憶』が注目されるようになったのですなあ。
1665年にロンドンを襲ったペストに逃げまどい、また立ち向かう「人々」を
さまざまな視点から描き出したものであるそうですけれど、「現代の視点から光を当てなおし、
そこにこめられた「パンデミックとどう向き合うか」「危機管理のあり方」「生命の安全と経済問題の葛藤」といった、
現代の私達にも通じる問題を読み解」くとした「100分de名著」の解説を聴いていて、
「ああ、文学は古びないものであるなあ」とつくづく思ったものなのでありますよ。
1665年の時代背景でもって、書かれたのも1722年ということですから、十分に古い時代の話であって、
十分に古びているではないかとも思えるわけですが、ペストに相対してそれぞれのふるまいに及ぶ「人々」の姿、
なによりも「人々」は変わらないものなのだな、むしろ何故かくも変わらないものであるかと
考えさせられたりしますですね。
17世紀当時とは明らかに情報量が違う現代でありながら、
デマやガセに右往左往させられる(それが発言に影響力を持つ政治家だったりもする)人びとがいるという点で
何も変わっていないのではないかと思うのでありまして。
相手が正体の知れないものであるだけに戸惑いは大きく、
「どう対処するかを誰か教えてくれ」という気持ちにもなるわけですが、
はっきり言って未知のものなのですから(だんだんと分かってくるであろうものの)
誰にもはっきりとはどうしていいか分からないのですよね。
その時に、「恐れている自分を恐れない」と、これは蓋し名言!と思ったものでありますよ。
ここで事細かに『ペストの記憶』の告げることに深く入り込みはしませんですが、
ともあれ昔々の物語に気付かされることものもあるものだなという点に関しましては、ちと思うことが。
数年前でしたか、文科省の通知を巡って「大学文系不要論」のような話がありましたですね。
「社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むように努める」なんつう表現もあったりして、
要するに大学の文系学部は社会的要請が低いと考えられているようにも見えたわけです。
その時は文科省はじめ、やっきになって火消しが行われ、沈静化したように思えるところながら、
とどのつまりの本音では無かったのですかね、火消しに努めたのは。
先ごろ、新聞の記事か何かでたまたま見かけたのでしたか、高等学校の学習指導要領が改訂されて
「現代文」(いわゆる「国語」ですかね)が「論理国語」、「文学国語」のふたつに分かれ、
いずれかの選択になるという話でありますなあ。2022年度からだそうです。
選択ともなりますと、受験に有利と想定される方へ流れるのはやむを得ないこと。
この場合、文学よりも論理的文章(?)の方がおそらく考え違いが生じにくく、得点が期待しやすいのでは
ないですかね。自ずと文学離れに拍車をかけもするような…。
世の中のスピードが速くなって、結果がすぐに求められる。じっくり考えるなんつうのは、
「もたもたするんじゃない」ともなりましょうか。その考える時間は大切な気がするのですけれどねえ。
ま、このことは理系についても、また論理的な文章にも言えることではありましょうけれど、
文学からくみとる力、これはなおざりにしてはいけんのではという気がしておりますですよ。