「英国式の、自然や風景をそのままいかした庭園」。

コトバンクによる「イングリッシュガーデン」の語釈ですけれど、

(イングリッシュですから当然ですが)「英国式の」というのですから、英国式でないものも当然にあるわけですね。

 

ヨーロッパでいえば、イタリア式とかフランス式とか。

イタリア式はヴィラ・デステなどに見られるようにテラスの段々があるような形でしょうか。

フランス式の方はヴェルサイユが典型的で、平面なところに幾何学模様を描く植栽があるような。

 

これに対して英国式というのは「自然や風景をそのままいかした」庭造りとなるわけで、

もちろん規模が大きい庭園もありましょうけれど、小規模であっても、

つまり大邸宅に住まって広い庭があるというわけではなくともそれぞれのサイズでもって

 「自然や風景をそのままいかした」庭造りは可能だという点が、もっとも特徴的なのかもです。

 

ですから、英国式の庭造りはその気になれば、それなりの規模で誰にでも取り組むことができる。

これがすなわちガーデニング(庭師に依頼するのでない、自らが行う庭いじり)の隆盛をもたらすことに なるのでしょうなあ。

だからこそ、イギリス映画には庭を扱ったものが結構ありますよね。

 

自ら手掛けた庭にはそれぞれに思い入れがありますから、褒めてもらうならいざ知らず、

他人からとやかく言われたくない。ましてや、一木一草の何に対しても手だしをしてほしくないでしょうなあ。

映画「マイビューティフルガーデン」に出てくる口うるさいお隣さん(トム・ウィルキンソン)もまた

当然にそうした思いがあったのでありましょう。

 

 

ただ自らの美意識に対して手出しをされたくないという気持ちは、庭造りとは別のところとも

重なるような気がしないでもない。見た目の方向性は全くことなるのですけれど、

ありていに言えばゴミ屋敷と言われるようなものを作り上げてしまった人とか…。

 

美意識というのは人によってとても受け止め方が異なるものであって、

以前、日曜美術館だったかのインタビューで生前の岡本太郎が

 「『きれい』と『美しい』は違うもの。『美』には『醜悪美』というものもある」てなことを 言っていたのを思い出すところです。

 

 「きれい」の方は「整っている」「片付いている」という意味合いのようですから、

ゴミ屋敷に「きれい」という言葉は当たらないにしても、「美」と受け止める感覚の中には

「醜悪」であるがゆえに「美」を醸すということがあるならば、なおのことゴミ屋敷はまさに。

乱暴な言い方ですが、イングリッシュガーデンとゴミ屋敷とは 「美」のバリエーションとして

どちらも成り立つということになるのかもしれません。

 

と、これは飛躍にすぎるとしても、ゴミ屋敷を構築してしまう人の中には

現前する状況をおよそ否定的に受け止めていないということはありますし、

必要なものが必要な場所にあると考えているのでもあろうかと。

それだけに他人の手出しはご無用との意識が出てくるわけで。

 

例えばお隣さんがおよそ真似できないほどの丹精を込めてイングリッシュガーデンを造り挙げた場合と

およそ考えられないくらいの勢いでゴミを積み重ねている場合とでは、気分は相当違うでしょうなあ。

どちらにしても当のお隣さんの思いは同じなのかもしれない半面、それを眺めやる側として庭だったらまだしもと

普通は思うと考えるところながら、花がたくさん咲いていると蜂がたくさん寄ってきて困るというようなこともまた、

実はあったりするかもしれませんし。

 

結局のところ、社会規範上、そつなく過ごすには「ほどほど」指向にならざるをえないのかも。

ですが、何ごとにつけそれではたぶん誰もが金太郎飴になりなさいと言われるようなものでもあるような。

集団の中で生きることと、個としてのありようとの両立はなかなか匙加減の難しいものですなあ。

と、結論をうっちゃりっぱなしですみません…(笑)。