ということで、常陸太田市の西山の里を訪ねて、黄門さまのご隠居所に到達。

まずは、ちと長いですが説明書きを引用してみるとしましょう。

元禄3年(1690年)、水戸徳川家2代光圀は、かねてから江戸を離れて隠棲したいと考えていました。世子・綱條(つなえだ)に家督を譲ると、常陸国久慈郡の西山に御殿の建設を命じました。
この地に御殿を建てた理由は、水戸徳川家墓所である瑞龍山や光圀の母・久の菩提をとむらう久昌寺に近く、また光圀が尊敬していた古代中国の賢人・伯夷と叔斉が隠棲した首陽山の別名が西山だったからと言われています。
西山御殿で光圀は、後の『大日本史』と命名された歴史書の編纂に取り組みました。

 

建物としては質朴な印象が全体を包んでおりますけれど、

見えている玄関部分から左手後方へ向けて座敷が長く曲折しながら繋がっておりましたよ。

 

見取り図はこのとおりでして、奥まったところにある赤丸のついた三畳間の方、

この小さな空間が『大日本史』の編纂に当たったという御学問所であるそうな。

御学問所の右上の丸印が御寝室、黄門さまは元禄十三年(1700年)この部屋で生涯を終えたということです。

 

 

隣接する守護宅(光圀亡き後、ここには御殿を守る役人が住まったとか)の中には、

畏れ多くも黄門さまが?出迎えの言葉を掛けてくれる資料展示コーナーになっておりまして、

水戸黄門が行脚して回った範囲がいかにさほどのものでなかったかということが知れるような

展示もあったりしましたですよ(笑)。

 

とまあ、そんな具合で徳川光圀の終の棲家たる西山御殿と庭園とを見て回り、

もと来た道を引き返すわけですが、いささか遅まきながらの昼食をとなるも、

この際入口のところにあった食堂で間に合わせることに。

こうして写真で見ると、わりと景観に馴染む建物でもあるようですし。

 

 

 

といってその実、建物で判断したわけではありませんで、

地元名物の「常陸秋そば」を食することができそうだったからというのが一番の理由でして。

常陸太田の「常陸秋そば」、常陸太田観光物産協会HPからちと紹介文を。

常陸太田市は、山地特有の昼夜の気温差が大きい気候と傾斜地に拓いた畑の土壌を生かし、良質なそばの産地として江戸時代から続いています。独特の香りや風 味、甘味に優れていた金砂郷在来種を親として粒揃いがよく、味がしまり、たんぱく質やデンプンを多く含んだ良質のものの選別を繰り返し、「常陸秋そば」と いう品種が誕生しました。香りがあり滋味溢れる「常陸太田産そば」はそば職人から高い評価を得ています。

 

市内には蕎麦の名店とされる店もあれこれあるようながら、

この食堂でパートのおばちゃんたち(?)が手掛けたかき揚げ天せいろ、これはこれで大層おいしくいただきましたですよ。

 

小鉢のひとつにこんにゃくがあるのを見て、「そういえば…」と思いましたのは、

以前読んだ『こんにゃくの中の日本史』に触れられていた、今につながるこんにゃく製造法はお隣の大子町で考案されたと、

そういうことでありまして。常陸太田市とは隣り合った地域ですから、こちらでもこんにゃくは有名なのでしょう。

 

蕎麦にしても蒟蒻芋にしても、主だった農産物の作りにくい土地柄の中で育まれた、

この地ならではの特産品でもありましょうか。それが観光客の食を満たしてもいるとは、なによりなにより。

 

というところで、時間は早いながらも渋滞を予期してそそくさと帰途に。

それでも、常磐道、水戸街道ともに大渋滞でしたなあ。

行った先で細かく動き回れる利点のある車ですけれど、往復の渋滞が難ですよねえ。

以上、「栃木のち茨城紀行」でありました。