ウェスタン、西部劇と聞けば活劇、要するにアクション映画であろうと想像するところですけれど、
全盛期にも叙情派西部劇なんつうのもありましたし、時代が下って先住民を一方的に悪者扱いすることに
疑問符が付けられるようになりますと、いわゆるドラマとしての西部劇が現れたりもして、
そうそう一筋縄ではいかないものであるわけですね。

 

そうした若干の予備知識がありつつも、このほど見た映画「シェナンドー河」もまた、
異色といっていいのかもしれんなと思ったりしたものでありますよ

 

 

バージニア州で牧場・農園を営むアンダーソン一家。家長たるチャーリー(ジェームズ・スチュアート)が

6人の子供たち(といっても、一番下でも16歳)を完全掌握して、実に厳しい父親なんですな。

 

そのこと自体が昔話的領域とはこの際措いておくとして、チャーリーとしては(移民一世なのでしょうか)

自らが家族とともに切り拓き、作物も家畜も育て、またそれを食して生きていることに誇りを持っている。

そのことが食前にお祈りにも如実に表れていたりもするわけです。

 

で、その誇りの裏付けのひとつが一切黒人奴隷を使ってこなかったし、

今後も奴隷を持つつもりもないと考えている点がありましょうね。

そのことの真意はともかく、少なくとも自らはそうして生きてきたという。

 

さりながら、一家の住まうバージニアは南北戦争の最中にあって、

南北の境界として南軍、北軍がせめぎあう土地なのですよね。

 

ご存知のようにバージニアという国(ステイト)は南部連合側ですから、

黒人奴隷を持ち、使うことを是としている土地柄なわけですが、

いい若者になっている子供たちの誰一人として出征していないというのは

家長の考え方はあるにせよ、地域社会においては相当に居心地の悪い思いもするであろうと。

 

ですが、チャーリーの思いは揺るがない。先ほども触れましたように、

自らの生きる術はおよそ自らが切り拓いたものであって、

バージニア(という国)に何らの恩も義理も無い、従って兵隊に出す必要もないと。

 

そんな状況ならばむしろ北部連邦の側に移り住むかといえば、

あくまで土地に根差した生活をしてますから、そういうつもりも毛頭無いわけですね。

 

加えて(そこをバージニアという国の中と捉えるかどうかは別として)、

土地に根差して生きているだけに、この土地に、もそっといえばバージニアという一定地域にも

愛着は感じてジレンマがあるとは言えましょうか。

 

そんなふうな印象を与える言葉などは語られないのですけれど、

それをひしひしと感じることになりますのは、ひとつには「シェナンドー河」というタイトルだからこそでもあるような。

 

「シェナンドー」というのは先住民の言葉で「星の娘」を意味しているそうですが、

日本でも数々のカバーバージョンのある「カントリーロード(故郷へかえりたい)」の歌詞として

聴いたことのある方が多いのでは。

 

歌の中で、シェナンドー・リバーはウエストバージニアにあるかのように印象付けられますが、

これは作者ジョン・デンバーの勘違いであって、本当はバージニアの川であるそうな。

 

しかも、この川の名前を冠した「Oh, Shenandoah」という古くからの歌(民謡)があり、

映画の中でこのメロディーがさりげなくも繰り返し繰り返し流れてくるのでありますよ。

後には歌詞を変えてバージニア州の州歌(つまりはバージニアにとっての国歌ですな)になっているだけに

これが通奏低音のように流れる中では、登場人物たちのバージニアへの思いというのも

時に傷みを伴いつつも感じ取ることができようかと思うところです。

 

間違っているのは国の方だろう。何故それが分からないのかといった思いがあったとして、

即座にその場を立ち去れない思いも、やはりある。なんだか他人事とも思えず、

沁みるところのある映画でもあったかなと思ったものでありましたよ。 完全に個人の感想ですが…。