古い西武劇はわりと見ている方だと思いますけれど、
ジョン・フォード監督作品ながら見たことの無かった「リバティ・バランスを射った男」を
遅まきながら見てみることに(「射った」は今なら「撃った」を当てるでしょうなあ、きっと)。
かつてよく西部劇を見ている頃はもっぱら冒険活劇として受け止めていて、
映画タイトルが勇壮なものには期待に胸を膨らませていたてなところがあったかと。
(もっとも、邦題は相当に「自由」な形で付けられたりしてますが)
そんな中にあって「リバティ・バランスを射った男」というタイトルは原題の直訳で、
それはいいとしても、なんかこう「かっちょよさ」みたいなものがおよそ感じられない。
だもんで、子供心にはスルー…だったのかもしれません。
で、今さらながらに見てみたわけですが、
思ったとおりにジェームズ・スチュアート
が「かっちょよくない」主人公で
いかにもなアメリカン・ヒーローたるジョン・ウェインは登場するも脇役であるとは、
なるほどこれだけとっても異色作と言われる由縁でもありましょうかね。
ただ、ある意味、「アメリカだなあ」と思ったり、いやいや「アメリカっぽくない…」とも
思ったりしたのでありますよ。
西部へふらりと流れ者がやってくるとはよくある設定。
たどり着いた町は悪者一味の好き放題にされているのもまたよくある。
で、流れ者は(そうとは見えなくとも実は)滅法腕の立つガンマンで、
あれこれあるも結局のところは悪者一味を退治して去っていく…というのが
実によくあるパターンなわけですね。
この映画でもランスという若者(ジェームズ・スチュアート)が西部の町にやってくる。
ただし、このランスは東部のロースクールを出たての弁護士で、いわゆる優男。
町にたどりつく以前に悪者リバティ・バランス(リー・マーヴィン)の一味に
こてんぱんにされてしまうのですなあ。
「復讐」というキーワードもまたよくあるところですが、
ランスにとっての復讐はあくまで法に則って裁くことなわけです。
しかし、町で一目置かれる牧童頭ドニヴァン(ジョン・ウェイン)の忠告に曰く
ランスが取るべき途は二つに一つしかないと。
一つは銃を持つこと、もう一つは町を去ること、そのいずれかだというのですね。
自由の国と言われるアメリカは、自助努力によって自らの「自由」をつかみ取り、
守るということが権利になっているところもありましょう。
銃を所持して、自らを守るのはむしろ自己責任として大事なことと考えるのでしょうか。
そうしたことの原点が、いわば西部劇に描かれる世界にはあるのではなかろうかと。
映画ですから誇張などももちろんあるとして、それでも実際にそういう時代があって、
そこを潜り抜ける中で「アメリカっぽさ」が出来上がっていったことは間違いないでしょうし。
法律こそを拠り所と考えていたランスも、
現実を目の当たりにする中で密かに射撃の練習を始めたりすることになりますが、
法による正義の実現とは相反する行動をとっているという後ろめたさが
密かに練習するという行動になっていったような。
そんなこんなのうちに、ついにランスも堪忍袋の緒が切れて「決闘だぁ!」状態に。
リバティ・バランスとランスが差しで向き合いますが、
片方はそんな状況の場数を多く踏んでおり、片方はびくびくもの…と、
そこに銃声が響き渡り、倒れたのはリバティ・バランスなのでありました。
悪党のリバティ・バランスを撃った男としてランスは町中から感謝され、
やがては町の代表として議員となり、連邦議会への階段を上っていくことになる…のですが、
これで終わると、結局のところは銃でカタをつけた者勝ちみたいなことになってしまう。
ある種、アメリカっぽいサクセス・ストーリーと見れば、それもありでしょうけれど、
話はそれで終わらないのですよね。
ネタバレ的な話にはなってしまいますが、ランスは本当にリバティ・バランスを倒したのか。
最終的には結論は出ますので、リドルストーリーと言っては当たっていないものの、
事実に直面したときのランスの心中には、リドルストーリーを読んだような晴れない思いが
渦巻いたことでありましょう。
西部劇映画の巨匠が西部劇の体裁をもって、
西部劇が描き出してきたアメリカに疑問を呈すといいますか、
スカッとさわやかな冒険活劇ではないこのような作品が作られたこともまた、
西部劇映画の話が終焉を予感させる出来事だったのかもしれませんですね。