あちこちの美術館で展覧会が行われるようになっていますけれど、
大学の構内にあるからでしょう、再開が遅れていた武蔵野美術大学美術館にようやっと
入れるようになりましたですなあ。芝生でくつろぐ学生の姿もちらほら見られましたですよ。
さしあたり二つの展示が行われおりまして、そのひとつが「脇谷徹-素描ということ」。
彫刻家で同大の教授でもある脇谷徹の作品展で、「素描ということ」とありますように
デッサン始め絵画作品なども多く展示されていましたですが、やはり目を引いたのは造形作品の方ですなあ。
フライヤーに見えているのは「扉を開ける」というタイトルのテラコッタ作品で、
より大きく等身大の人物を木彫で造りあげるための習作かもしれません。
近くには見た目同じの、「未完」とした大きめの木彫作品がありましたし。
とまれ、このフライヤー画像だけからは分かりにくいとは思いますが、この後ろ姿の人物、
木枠が表す扉を抜けて向こう側へ入ろうとしているのでしょうけれど、
木枠の内側は、素直に見れば壁のように向こう側を見通せないようになっていますから、
あたかも壁抜け男がまさに壁を通り抜けようとするその瞬間をとらえたようにも見えますな。
顔の部分はすっぽり埋もれてますので。
しかしながらこの作品を前にして思い至りましたのは、
扉のこちら側と向こう側とは、仕切られているという物理的なことだけではなく異なる空間、
互いにいわば異空間として存在しているのであろうなあということでして。
扉のこちらと向こうとでは、ドラえもんの「どこでもドア」を抜けたような違いではないにせよ、
空気感といいますか、雰囲気の点でも全く違っているのではないですかね。そのこと自体、
普段はあまり意識することもないままに過ごしていますけれど、例えば住み慣れた自宅の中であっても
扉を通り抜ける前と後では、その場の空気に包まれて、もはや通り抜ける前そのままの自分には
戻ることがないわけですから。
そんな向こうとこっちの隔てを、普通は視覚的に感じることはないところながら、
実は…と「見える化」してみればかくあらんということなのかもしれません。
ま、当たっているかどうかはともかく、そんなふうに受け止められて、
この作品で出会う前と後ではいささかにもせよ、自らに変化が起こり、後戻りはできない。
大袈裟に言えば、「ああ、芸術」だなと思ったりしたものでありますよ。
ところで、作者の扱う素材はとても多様なようでありまして、
鉄を使った「金属素描」なるシリーズ作品がまた印象に残るものでありましたなあ。
さまざまな形の鉄くずを用いて、牛が象られていたり、婦人の坐像になってりいたりしますが、
鉄くずを見える形をそのままに残しながら新たな全体像を構築するにあたり、
そのモデルとするもの(例えば牛や婦人)に必ずしも「似せる」必要はないのだなあと。
見る側のイメージが補完するとでもいいますかねえ。
牛の背中、こぶ状に盛り上がった部分には溶接用のマスクと思しきものがそのままの形で
載せられていて、それだけを見ればどうしたって溶接用マスクにしか見えないのですが、
全体としてみれば牛の背中の曲線の一部と受け取られたりしますし。
一方で女性像の方は、両の腕がそれぞれ途中で途切れ、後は手首から先が存在しているとか、
顔ははっきりと作り上げておらずにあたかもつぶれてしまっているようにも見えるとか、
そういうところはありながら、全体としてはやはり女性の坐像であって、
腕がないとか、顔が判然としないとかいうことは見る側がそれなり想像したりして
(実際には無いものを)「見ている」わけで。
それにしても、鉄という硬い素材を使いながらも、それが鉄くずの集合体と思うと、
部分部分は当然に熔接で堅くくっ付けられているとは思うものの、
何気ないもろさを感じるのですなあ。この辺りの印象は素材のことだけでなくして、
作品自体から受ける印象としてももろさを感じるところとなりましょうか。
こうした思い巡らしのあれこれこそが美術館でのお楽しみであるわけですが、
さてもう一つの展示のお話はこの次に。