なんだか落語の人情噺でもあるような…。
映画「あかね空」を見て、そんなふうに思ったものでありますよ。
深川の長屋で豆腐屋を始める男の話ですけれど、
その長屋は棒手振りの豆腐屋がお得意さんにしていたところ、まあ当然に確執もありますなあ。
と、実はここでこの映画の話に突入するのではないのでありまして、
商品を携えて町々を流し売り歩く商売の呼び声が懐かしく思われたりしたという方向のお話です。
ともすると、豆腐屋は今でも(棒手振りではないものの)自転車で回ってきたりするところもありましょうけれど、
呼び声を「とぉふぃ~」と呼ばわりながら歩くか、あるいはその「とぉふぃ~」と見事に音を同じくするラッパを
吹きながら流しているものと思います。
ですが、昔は豆腐屋ばかりでなく、金魚屋、風鈴屋といった季節ものなど含め、流しの呼び声がいろいろあって、
現実にはなかなか聞けなくなった今、落語の中などでは辛うじてそれを偲ぶことができるという。
実際に落語を聴いていてそんな場面に出くわし、「はた!」と記憶の底からとある呼び声が急浮上してきのですなあ。
「えいかけぇ~、傘の修理!」
子どものころに何度かこの呼び声を耳にしたことがあるのですけれど、
傘の修理は分かるとしてその前来る「えいかけぇ~」とはなんなのか。
要するに傘の修理屋さんが単に掛け声としてあたりの住民の気を引くために発しているのかとも思いましたが、
実際の語調は明らかに「えいかけぇ~」の部分が大きく、その後にぼそりと「傘の修理」が続くという具合、
本当に伝えたいのは「えいかけぇ~」の部分なのであろうと、子供心に思ったものです。
それは謎のままに何十年もの月日が流れたわけですけれど、ここへ来て先の落語から
「ああ、あれは鋳掛屋さんだったのであるか…」とようやくにして気付かされたのでありますよ。
昔はひとつのなべ・かまを大事に大事に使っていた。ですが、こうした金属製品、その当時の品質故でしょうか、
ひびが入ったりするわけですなあ。このつぎあてをするのに、溶かした鋳鉄を掛けて直すという商売があった。
これが鋳掛屋さんですけれど、かつてと異なり、なべ・かまはステンレスなど鋳鉄製ではなくなって丈夫になりましたし、
ともするとなべの類は100円ショップで売っていたりするかもしれませんですね。
それを直して使うという発想はもはやないのではと思うところです。
呼び声に聞き覚えがあるといった鋳掛屋さんにしても、時代は昭和の40年代に入っていたでしょうから、
すでに絶滅危惧種になっていたと思うところで、同時に傘の修理も手掛けることで何とか生き延びていたのでしょうか。
その傘の修理にしても、ビニール傘が出回ることで、
この種の傘の使い捨て状況(台風の後など道端に壊れた傘が打ち捨てられて…)からしても
ほどなく生計の助けにはならなくなっていったことでしょう。
その一方で、安いものはともかくも「こだわりのひと品」といった類を大事に、
修理しても使うという世の中になってきてもいるような。
そんなときに必要とされるのが、再生技術なのですよね。
ですがかつてとは様変わりして、その技術を持った人に希少価値があったもすると、
自ずとかかる費用も高くなる…となれば、よほどのこだわりのある品でないと修理することもないとなって、
比重は使い捨ての方へ、使い捨ての方へと…。
これが便利になった世の中の姿であるわけですが、果たしてどうなんでしょうねえ。
とまれ、何十年かごしの謎が解けたことには、胸のすく思いがしたものでありますよ。