Eテレ「趣味どきっ!」で2月から3月にかけて「茶の湯 裏千家『心を通わすお茶』」という、

茶道の超入門的番組が放送されておりましたなあ。

 

茶の湯に興味が湧いてきており…ということもないのですが、

やきものである茶碗の方には目を向けることの出てきた昨今ですので、

なんとはなしに番組を見ていたのでありますよ。

 

すると、(まったくもって今さらながら)茶の湯は茶「道」とも言われるだけあって、

要するに修行なのだなと。紹介される作法のあれこれを見て、

「なんとまあ、面倒な」とか「要するにお茶を飲めればそれでいいような」とか、

そんなふうにしか思わない者(かくいう当人ですが)には極意はほど遠いところにあるわけで。

 

茶坊主てな言葉がありますとおりで、いわゆるお茶文化はお寺さん発祥ということにもなりましょうけれど、

お茶お花と並べて呼ばれることもあった華道、こちらもまた「道」、すなわち修行的な意味合い含みのありようは

やはりお寺さんから出たものであったのですなあ。映画「花戦さ」を見て、初めて知りましたですよ。

 

 

京都・六角堂の僧がご本尊に花を供えることを通じて、そこにひとつの「世界」を見たのでしょうなあ。

花の活け方が表現になり、後にいうアートと結びついていくことなる始まりがそこにあったということのようで。

確かに花の色使い、枝ぶり、そして空間との調和(あるいは破調)などは今ならインスタレーションと言うべきかも。

これまた華道なるものそのものへの興味はおよそ感じたことはなかったですが、

この映画を通じて考えたことでいささかの取っ付き点が見つかったようにも思えたのでありますよ。

 

ですが、話は華道の歴史紹介ではありませんで、六角堂の僧・池坊専好(野村萬斎)が

精神的に深い交流を持った千利休(佐藤浩市)を切腹させた秀吉(市川猿之助)に対して、

活けた花を披露することでそのおごりを諫めようとするのですな。これをもって花戦さであると。

 

茶室で秀吉を黒茶碗でもてなそうとした利休ですけれど、これに怒って利休を足蹴にする秀吉。

自分は金が好きである、黒は嫌いだとして、利休には「金と黒と、どちらが美しい」と問いかけるわけですが、

結局のところ「自分がいいというものがいいのだ」という視野狭窄を起こしており、

それぞれにそれぞれの良さがあることを見失ったしまっていた。

 

結局のところ、利休を疎ましく思えてきたのも、そうした独裁者ならでは偏狭なものの見方のせいであろうと、

専好はそこに切り込む戦さを仕掛けるのでありますよ。

 

言わんとするところは深いようでいて、今さら深いとはいうまでもない知れたことなのですけれど、

それをインスタレーションを通じて分からせようとする、芸術作品は送り手と受け手の交感であることは

改めて思い知るところであったなあと。その意味では面白かったと言っていいように思うわけです。

 

ところで、ラストの河原が一面に花の咲き乱れる園に代わるシーンは、

なんだか極楽浄土に見えてしまいましたなあ。

となると、花戦さの結末は果たしてどうであったのか…てな思いもあらためて。

 

フライヤーには「誰も知らなかったホントの話」とありますけれど、

どこまでをホントと受け止めていいのかは考えどころでもありましょうねえ…。