やっぱり自宅にいる比率が高まったせいでしょうか、

映画(といってももちろんTVでですが)を見て、そこからあれこれ思うあたりを書くことが多くなりますなあ。

 

新聞で見かけた一文に、かつては目の敵にされていた「ひきこもり」というライフスタイルが

今や推奨させる過ごし方になった…とありましたのは、一面では「なるほどな」と。

 

とにもかくにも、様々な価値観、価値判断、価値基準が揺らぎ、

つい2月ほど前とはものの見方考え方が変化していくのかもしれませんですね。

 

 

と、前置きはともかくとして、このほど見ましたのは「バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」、

アカデミー作品賞ほか受賞多数の一作だけに話はご存知の方が多いことでしょう。

ですので、そっちの方はあらすじをamazonから借りてくるくらいに留め置くことに。

映画シリーズ4作目を断って20年、今も世界中で愛されているスーパーヒーロー“バードマン”。だが、バードマン役でスターになったリーガンは、その後のヒット作に恵まれず、私生活でも結婚に失敗し、失意の日々を送っていた。再起を決意したリーガンは、レイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」を自ら脚色し、演出と主演も兼ねてブロードウェイの舞台に立とうとしていた。ところが大ケガをした共演者の代役として現れた実力派俳優のマイクに脅かされ、アシスタントに付けた娘のサムとは溝が深まるばかり。しかも決別したはずの“バードマン”が現れ、彼を責め立てる。果たしてリーガンは、再び成功を手にし、家族との絆を取り戻すことができるのか?

と、ストーリーそっちのけでいったい何の話をするのかとなりますが、

話の中でちとひっかかりのあった部分にフォーカスするということなのでありまして。

 

ブロードウェイの舞台に再起を賭けるリーガン(マイケル・キートン)は初日を目の前に控え、

立ち寄った劇場近くのパブで『ニューヨークタイムズ』のカリスマ劇評家(?)タビサ?に出くわすのですな。

彼女の書く劇評はその舞台興行が成功するか失敗するかを左右する、そんな影響力を持っていることを

自ら十分に意識しているタビサですが、リーガンに対しては実に辛辣な言葉を浴びせるのでありますよ。

 

書くことは決まっている。酷評以外にはない。はっきりと告げるタビサに

リーガンは「プレビューを見てもいないのに」と食って掛かりますが、タビサは見るまでもないと。

ここで話にでるのは、「あなたは(しょせん)映画俳優ではないか。ここはブロードウェイなのだ」ということ、

つまりは舞台俳優でもないのに付け焼刃で芝居興行を打つとはそもそも不届きとの思いがあるようで。

 

映画と舞台、演じて見せるという点では俳優の役割は同じと言えないことはありませんけれど、

おそらく「違う…」とは誰しも思うところではなかろうかと。

ひとつには映画と舞台のフォーマットの違いが大きいですよねえ。

分かりやすい例で言いますならば、クローズアップがあるかどうかですとかね。

 

舞台の場合、見る側からすれば基本的に舞台やその上に乗る俳優たちとの距離は一定なわけですが、

(歌舞伎の花道とか、ともすると客席間の通路で演じるとかいうこともありますが)

映画の場合は対象物にぐぐっと近寄る(といっても見ている者の代わりにカメラが、ですけれど)ことがあるわけで。

 

そんなところからでもありましょうか、いわゆる銀幕のスターには美男美女が求められることになりまして、

(といって、舞台の方はどうでもいいと言っているのではありませんが…)そうした傾向のあまりに

ともすると見た目重視(つまりは演技二の次)で映画(TVはさらに)に登場する、

そんなふうに映画俳優を十把一絡げ的に見てしまうこともあったりするのでしょう。

そして、実際に今でもあることですが…。

 

これに対して舞台の役者はあくまで演技勝負であって、

見た目の方は(遠目で見るからかもながら)役作りが生きていると自ずと良く見えてくるのですな。

それこそ演技のなせる業でありましょうし、その技能を磨く努力を怠らないのが舞台俳優のイメージかも。

 

ですが、タビサのように影響力のある劇作家が再起に賭けるリーガンを

端から「かつてハリウッドのアクション映画で大スターだった」ことを持ってその芝居を全否定してかかるのは

いかがなものでありましょうかね。リーガンがタビサに対して毒づくのもやむなしかとも。

 

で、その毒づく中でのことですが、批評家、評論家のたぐいを指して

要するに「言葉をもてあそんでいるだけではないか」と当たるのですけれど、これはこれで考えどころですな。

 

世に「何々評論家」とは数多存在するわけですが、一般にも使われる揶揄的表現として

自分は見ているだけで何もしないのに、とやかく難癖つけたりすることを「評論家」のようなというように、

自分ではできもしないことで、よくまあ他人をばっさりやれたものだ…という意識もあったりしますものねえ。

 

ま、客観的な視点で一定の評価を示す役割には存在意義がありましょう。

それを否定するつもりはありませんけれど、そうした役割にあることは広く認められてこそのものでしょうから

認められるには認められるだけの不断の努力(具体的には該博な知識と高潔な人柄とか)が必要なのでは。

 

とりわけ高潔な人柄とは、いったい批評となんの関わりが?となるやもしれませんが、

その批評が変に偏った見方によるものでない、そのことが「この人が言うのなら」と思える人物であるか、

てなあたりでしょうか。世に何々評論家の中にはいわゆる変わった人?もいるでしょうけれど、

なるほどこの人の言うことならと思える人の集団は同じような個性を持った人たちにかなり限られるのではなかろうかと。

 

こう考えると、自らを「評論家である」と言うとすれば多分に勘違い含みであって、

いわゆる揶揄ではない「評論家」とは広くそのように認められてこそなのではありませんでしょうか。

 

…というふうに、見事に映画「バードマン」の話のようでいて離れていってますが、

それはあらかじめお伝えしましてので、看板に偽り無しでもなかろうかと。

とまれ、「バードマン」を見ながら、そんなことを考えたということなのでありました。