折から悪しくなるばかりの状況下、
すでに在宅勤務(最近ではテレワークというようですが)が命じられているいささかうんざり…という者が
レンタカーを借りたからどこかへ行くのに便乗せんかという話が舞い込んだのでありますよ。
「どこかへ」といって「どこよ?」ということになりますけれど、
現下の状況で東京もんが周辺他県に繰り出すのは歓迎されまいと(そんなとこもないでしょうが)、
それならいっそ東西に長い東京の西のはずれ、奥多摩の方面にでも向かおうかということに。
先日からふいに発表されるようになった都内市区町村別感染者数一覧とやらでも、
奥多摩町は「0」(感染が分かった人の数ということは理解してはおりますが)ですのでね。
リスクという点では、都心方向に出かけるよりもいくぶん安心感があるといいましょうか。
そも住まっているのが多摩地域ですのでさほどの遠出とはいえないものの、
ともかく車便乗でもって、東京の懐奥深くへと向かっていったのでありました。
ほぼほぼ多摩川を遡上する形で進む途中、「おお、あれは!」と急遽、臨時停車の一幕が。
今年は暖冬だった影響で、都心はもとより住まっているあたりでもすでに桜は終わりと思っていたものですが、
すこしばかり山に近づいた標高の違いでもありましょうか、今を盛りのように桜が咲き誇っていたものですから。
何だかんだと気分は滅入りがちなご時勢ではありますけれど、
気温もあがってちょうど春らしい陽気の中で桜を愛でるのはなかなかに晴ればれとした気分になりますな。
気分が変わるというのも、ほんのささいなことからなのであるな…といったことを思いつつ、
先へと進んでいきまして、とりあえずの到達点は奥多摩の小河内ダムなのでありました。
広々とした場所だけに、いわゆる「3密」とは無縁の場所でありますよ。
小河内ダムの竣工は1957年(昭和32年)、当時の東京はここを都民の水がめとして大いに頼りにしたわけですが、
今は多くを利根川水系のダムに依存することによって、都の水源全体の2割程度になっているそうな。
そうはいっても東京からすれば唯一の独自水源であって、日々の、そして非常時には特に恩恵を受けることになりましょう。
堤頂部から谷側を見下ろすと、いやあ、高い高い。
下部には水力発電所もあって地元奥多摩町やお隣の青梅市に送電しているとか。
ですが小河内ダムには恩恵ばかりでなく、(どこのダムについてまわることながら)ダム建設によって
湖底に沈んでしまう村々があったこともまた事実。とくに首都東京のためという名目のもと、
とばっちりをうけたのが隣接する山梨県の村々であったことはかつて読んだ「清里開拓物語」という本で知った次第です。
立ち退きは避けられず、代わりに土地を与えるとして移転させられた先が寒冷な八ヶ岳の火山灰地であって、
農作物も思うようには育たず、大変な思いでなんとか開拓していった…それが今のリゾート清里の始まりであったわけで。
奥多摩湖と呼ばれるようになったダム湖の畔には、
刻まれた文字もすっかり見えにくくなって誰も足を止める人とておりませんでしたが、
「湖底の故郷」と記された大きな石のモニュメントが置かれてありました。
しかし、この石碑造営のいわれを見ると、かつての小河内村6百戸が沈んだことしか書いてありませんが、
山梨県側のことにも触れてあっていいのになあと思ったものでありますよ。
とまあ、そんな思い巡らしもありはしましたけれど、広々としたところで英気を養う。
もちろん現下の状況に即した備えというものも必要な毎日ながら、時折にもせよ、
そうしたことがありませんと、違う病いに陥ったりすることになったりしてしまうかも。
兼ね合いが難しいところではありますけれど。