さて、外房の海岸線沿いを移動して、房総半島の南端部へやってまいりました。

野島埼でありますよ。

 

 

ところで、岬あたりを訪ねていつも気付くことながら、

「野島埼に着いた」という一方で、たどり着いたところには「野島崎」と書いてある。

この「埼」と「崎」の違いには、以前観音崎を訪ねたおりに一度触れましたけれど、

いつまでも地図と海図での表記の異なりは続くのでありましょうか…。

 

とまれ、岬に灯台はつきものでありまして、上の写真にもちらと見えておりますね。

野島埼灯台、こちらへと足を向けたわけでして。

 

 

灯台の足元にはかような解説が施されておりました。

野島埼灯台は、慶応二年(1866年)江戸幕府とアメリカ等4カ国との間で結ばれた江戸条約において建設することが定められ、明治2年(1869年)12月18日竣工し初点灯されました。日本の洋式灯台としては、観音埼灯台に次いで2番目のものです。当時建設された灯台はフランス人技師ヴェルニーの設計による煉瓦造でしたが、大正12年(1923年)9月の関東大震災により倒壊し、大正14年(1925年)8月15日に改築されたのが現在の灯台です。

三浦半島の観音埼灯台に次いで古いものであるとは、

やはり江戸湾(東京湾)の出入口を東西から挟む地点だからということなのでしょうかね。

と、灯台脇には資料館もありましたですよ。

 

 

フロアの真ん中には大きなレンズが置かれてあるのが、いかにも灯台の資料館らしいところです。

解説には灯台の歴史ともども灯器の歴史も記載がありまして、これがちょいと興味深いかも。

 

1869年(明治2年)とはちょうど野島埼灯台が造られた頃ですけれど、

この頃の灯りにはその灯源として落花生油が採用されていたというのですよね。

 

千葉だけに落花生は豊富?と思うところながら、

千葉県での落花生栽培の始まりは1876年(明治9年)であったとなれば

灯台のできたころにはまだ栽培されていないということになりますなあ。

千葉だから落花生油だったというわけではないようです。

 

その後、灯源は石油、ガス、電気と変わっていきますけれど、そのあたりを逐一追いかけると長くなりますので、

この辺で資料館をあとにして灯台に登ってみることに。

 

 

しかしまあ、世に「雨男」「雨女」などという言い方がありまして、同行者の中にそのたぐいが混じっているのか、

はたまた普段の行いが災いしているか、どうにも天候に恵まれませんなあ。

銚子の犬吠埼に出かけたときにも、高知の室戸岬を訪ねたときにも、

本当ならば青い海、青い空の大きな広がりが望めるはずなのですが、どうにも叶わず、このときもまた。

 

 

こんな具合ですので、そそくさと灯台周の周辺散歩に移ることにしましたですが、

このような石碑(というより、自然石にはめ込まれたプレート)が目に留まったのでありますよ。

 

 

これでは何が書かれてあるか、ちいとも判読できないところでしょうけれど、

ここには「里見義実公 上陸の地」と書かれてありました。

 

房総半島の南端、安房国といえば「南総里見八犬伝」からも里見氏の支配地と思うところながら、

室町中期の関東は幕府から遠く離れて、豪族たちが勢力争いを繰り返し起こっていて、

そうした混乱の中で里見義実はたまたま?流れ着いた野島埼からあたりを平定、

安房の主に収まったということであるそうな。

 

時に嘉吉元年(1441年)のことであるとか、文安二年(1445年)であるとか、

そもそもなんだって里見義実が安房にやってきたのかも含めて、諸説紛々のようではありますが。

 

とまれ、今でこそ房総半島の突先であって、どん詰まりに位置するように思える土地柄であるも、

かつて海上交通が盛んであった時期、突先だからこそ入り口だったという時代があったことに

改めて思いを馳せる野島埼だったりするのでありました。