ドイツ・ヴィッテンベルクのルターハウスを訪ねて、展示はその核心にふれるものへ。
いささか大仰な物言いにはなってしまいましたですが、それはこちら、「95カ条の論題」でありまして。
1517年、マルティン・ルターがこれを発表したことをもって「宗教改革」の始まりとされるものでありますね。
もっともよく知られておりますように、ルターの発表の仕方は教会の扉に貼り付けるという方法だったわけで、
その教会の場所もまたヴィッテンベルクでありました。
先に町の模型の展示で見ましたように、ヴィッテンベルクの町は東西に広く、南北に狭いのでして、
市壁の跡と思しき周回道路の右側、東の端あたりにルターハウスがあり、反対側の端あたりに城が建っている。
賢明公フリードリヒ3世が宮廷を置いたとも言われますので、ザクセンあたりではひとかどの都市であったのでしょう。
その城に附属する教会、一般に城教会と呼ばれているようですが、そこの門扉にルターは貼り紙をしたのですなあ。
それがこちらの扉になるわけですけれど、今では扉自体に「95カ条の論題」がレリーフで刻まれておりますな。
近寄ってみますとこんな具合です。
とまれ、一介の神父が憤りに任せて貼り紙をした…てなふうにも考えてしまったりするところですが、
「神学の博士でもあった当時のルターには、宗教に関する疑点を論争する権利がありました」ということですので、
決して藪から棒な話ではなく、正当な権利に基づいた論点の提示というだったのでありましょう。
ということですので、こうした掲示がほかにまったく無かったわけではなかろう中で、
取り分けルターの論題には反響が大きかったのでしょうなあ。
いちばん上に「95カ条の論題」ですといって紹介した写真は明らかに印刷物なのでして、1517年のものであると。
ルターが論題を掲げたのが1517年10月31日ですから、その後2カ月ほどの間に印刷物が出回っていた。
おそらく当時の印刷物は貴重な、そして高価なものであったことでしょうに。
そもルターが落とした水滴による波紋の広がりは、ひとえに印刷という技術の関わりがとても大きいのですよね。
15世紀半ばにマインツのヨハネス・グーテンベルクが活版印刷術を考案して以降、その技術は各地に広がりますが、
分けてもライプツィヒは長らく印刷、そして出版の町として知られるようになり、
かつてはドイツに出回る印刷物の半分がライプツィヒで制作されていたのでもあるとか。
必然的にライプツィヒ周辺の町にも影響は及び、ほど遠からぬヴィッテンベルクにも印刷業者はいたことでしょう。
(そういえば、これまた遠からぬエアフルトがマインツ選帝侯領土の飛び地であったことも絡んでおりましょうかね)
そうした技術を通じて「その後の2年間に、ルターの論題は22回復刻された他、デンマーク語、オランダ語、
そしてチェコ語に翻訳され」たということで、波紋の広がりは言語を越えて後押しされることに。
ルターが「95カ条の論題」の提示したこと自体に歴史的意義はあるものと思うわけですが、
それが(ライプツィヒという印刷の町にもほど近い)ヴィッテンベルクで発信されたこともまた
大きな関わりのあることであったのだなと、思いを新たにするのでありました。