御年83歳となる映画監督ケン・ローチ(クリント・イーストウッドには負けますが)の最新作、
「家族を想うとき」を見てきたのでありますよ。前作の「わたしは、ダニエル・ブレイク」もそうですが、
社会的弱者に目を向ける視点で描かれた作品でありましたよ。
「悪循環」という言葉がありますけれど、世の中、どうも悪いほうに転がりだすと
なかなか良い方へ向かうというふうにもならないものなのですなあ。
カードゲームの「大貧民」(「大富豪」とも)は実社会の表しているということになりましょうか。
主人公のリッキーは不況風にあおられて建築関係の仕事を失い、
妻が介護士として働いてはいるも子供二人ともどもの生活のためにと新しい職を探すのですな。
どうやら友人の口添えもあって宅配ドライバーの職を得ることに。
ですがデポの支配人マロニーは、宅配会社との直接的な雇用関係のないフランチャイズ契約であって、
雇われ人でない自営業者なのだということを宣言するのでありますよ。
独立した自営としてたくさん仕事を請け負えばそれなりの実入りになるしとは言う一方で、
休業補償的なものは一切ない自己責任である以上に、
請け負った仕事にふいに穴があけるようならば賠償金ものですよとは強調しない。
リッキーが家族のトラブルで「仕事を休ませてもらえないか」とマロニーに申し出ると、
代わりの配達人を見つけてこい、でなければ賠償金だ!と言い、
また家庭の事情なんてものは誰にでもそれぞれあることで、
そんなことには構っていられないと。
まさに訴訟問題が世間を騒がせているどこそこかのフランチャイズ契約を思いだすではありませんか。
24時間店を開けるという契約を結んだんだから、親が死んでも店を開けるのだ、
さもなくば契約解除だぁ!てなところでしょうか。
でも、これって本当に独立した自営業者であると言えるんでしょうかねえ。
ちゃあんと条件を説明して契約したんだからということではありましょうけれど、
なんだかものすごく人の弱みに付け込んでいる感がありありではなかろうかと。
仕事が順調なときには「この分ならほどなく持ち家が手に入るかも…」などと
リッキーは夢を膨らませもしましたけれど、なかなかにそうは問屋が卸してくれないわけでして、
容赦なく家族のトラブルなく、本人のトラブルが襲い掛かってくる。それで仕事に穴をあけると、
賠償金やらでむしろ借金がかさんでいくような状態にもなるわけです。
暴漢に襲われて荷物を奪われ、ケガの治療で病院に来ているリッキーのもとに
マロニーからは「保険でカバーされない損害はリッキーが賠償することになる」といった電話が
入ってくる。まさに情け容赦無しです。
が、マロニーにしてみれば、個人の事情など構っていられない、
そのことは自分自身にも当てはまって、これまでがむしゃらにやってきたからこそ
デポの責任者におさまっている自分があるという経験に、
そうした考えは裏付けられているのですよね(もちろんマロニーにとってですが)。
そこで、自分が働かなければ借金も返せないし、家族は幸せにもなれないという思いから、
リッキーはケガだらけの体でデポに向かおうとするのですよね。仕事をせねばと。
日本にも業界は違うけれども似たようなところがあり、
英国でもこうした映画ができるような状況が確かにあるのでしょう。
「働かざる者、食うべからず」とか、もっと言えば弱肉強食的なところがビジネスにはあるとしても、
ぎりぎりとそちらの方向へ向かうことばかりが人のありようではないような。
他の動物よりもヒトが賢いというのであれば、
もっともっと違った、人が人らしく生きていける社会のありようを見いだせそうなものだと思うのですが…。
ちなみに原題は「Sorry we missed you」でしたので、
もしかして最後にはリッキーが過労死でもしてしまうのか…てなふうにも思いましたが、
どうやらこの言葉は宅配の不在者連絡票に書かれている決まり文句であるのですなあ。
「いないときに来てしまってすいませんねえ」という気持ちでしょうか。
確かに受け取る側が客ですので、客に対しての言葉ということでしょうけれど、
受け取る側が確かに客であるとしても「届けてもらって助かりました」てな気持ちがあってもよいのでしょう。
それこそ、さきほど引き合いに出した日本の例ではありませんが、客の側が「開いてて良かった」と思えるような。
もっともその前提には24時間開いていないからとクレームしたりするようなことがないようにしたいものです。
