BBC によるドラマ版の「レ・ミゼラブル」(全8話)を見終えたところで

つらつらと考えていたのですなあ。


このドラマ版では最初にファンテーヌがコゼット宿す前のストーリーなどが置かれて

より大河ドラマっぽい大きなストーリーが展開するふうでありましたけれど、

つらつら考えたというのはそうしたところではありませんで。


敢えて申すまでもなく、この物語はどうしてもジャン・バルジャンの側に肩入れしてしまい、

ジャベールの執拗さを苦々しくも「なぜそこまで?」と思ってしまうところがあろうかと。


ですが、考えてみてふと気づくのは「ジャベールは勧善懲悪に徹しているだけではないか」、

とまあ、そういうことなのですなあ。


とはいえ「勧善懲悪」、表向き決して悪いことではなさそうなこの言葉ですけれど、

その考え方の立ち位置といいますか、根本的な考え方といいますか、

そうしたもののありよう次第では、ジャベールに抱くような印象が出てきてしまうのですよね。


つまり、ジャベールには「悪いやつはとことん悪い」、「悪事を犯したものは必ず繰り返す」、

「変わることはないのだ」という強い思いがあって、逃亡を繰り返すジャン・バルジャンは

ジャベールにとって、思ったとおりの「悪の権化」ということになるのでしょう。


ですから、野放しにはしておけない、とことん追い詰めるということになるわけで。

もっとも、このあたりは卑近な見方をすればルパン三世に対する銭形警部かとも

思えたりするところではありますけれど。


ところで、こうしたジャベールの悪者観は特別に過ぎたものであったかと考えると、

時代背景的には(自由・平等・博愛を掲げたフランス革命期を経てはいたとしても)

結構ジャベール的な発想が普通にあったのではなかろうかと思うのですよね。


そう考えると、「勧善懲悪」なる言葉が表すところも時代時代の考え方、

ともすれば誰にとっての「勧善懲悪」であるかによって、結果が大きく変わってくるという

何とも危ういものであることが分かってくるのですよね。


とまれ、ジャベールにとってジャン・バルジャンは「悪の権化」であるわけですが、

ジャベールなりの悪者観が信念となっていますから、ジャン・バルジャンがなぜ

罪を犯してしまったのか、そこのところにはいっかな目を向けないわけです。


それが、ジャン・バルジャンと長らく関わる中でジャベールの中に揺らぎが起こる。

「もしかして、目の前に見えた犯罪だけを追いかけるのは誤りなのではないか」と。


結果、ジャベールは警視総監宛に罪を犯した者の取扱いに関して改善策等を提案する。

それはもはや「悪いやつは徹底的に懲らしめる」というスタンスでないのでして、

犯罪が起こる背景に目を向けた(ジャン・バルジャンによって向けさせられた)

その結果の故なのでありましょう。


ですが、自身長らく持ち続けた信念を真っ向否定することになることでもあり、

ジャベールは決然、セーヌに身を投げざるを得なかったのであるかと思うところなのでありますよ。


何ごとにつけある思いをひと筋に突き進んでしまうときに、
「本当にそれでよいのか」と自問することをついつい忘れてしまうのがヒトであるのかも。
だからこそ「レ・ミゼラブル」はそうしたことに対する教訓の物語としても
長く長く受け継がれていくのかもしれませんですね。