INAXライブミュージアム
内にはいくつかの建物が点在して…と申しましたですが、
世界のタイル博物館
とはまた別の建物も覗いてみるわけでありまして。
こちらは「建築陶器のはじまり館」。
タイルも外壁などに使われますから「なるほど建築陶器か」と思うところですが、
タイルに加えて「彫刻のような大きく厚みをもったやきもの」すなわちテラコッタもまた
建築陶器と呼ばれるそうな。
この施設では建築、主に日本の近代建築における建築陶器の使われようを
歴史の流れの中で紹介しておりました。
江戸時代の日本の建物はもっぱら木と紙の家で、たびたび大火に見舞われたきましたですね。
明治になっても即座に変わるものではありませんが、大火がきっかけとなって
「これではいけん!西洋にももそっと耐火性に優れたものがあるではないか」となって、
まずもって登場するのが赤レンガの建物ということに。
京橋で以前見かけた「煉瓦銀座之碑 」には、
明治5年(1872年)に起こった「銀座大火」の結果として
その後の銀座煉瓦街が造られたと記してありましたっけ。
そんなふうに「洋風建築といえば赤レンガ」であったのが、
やがてさらに耐震性・耐火性を追求する中で鉄筋コンクリート造が注目されることに。
しかしながら、赤レンガの建物に比べてコンクリート打ちっ放しの建物は
見た目にどうもそっけない…と昔の人たちも思ったどうかは分かりませんけれど、
どうも鉄筋コンクリート造の建物にはテラコッタの装飾というのが
セットで考えられていたかもですね。
装飾という面だけでなく、
1871年に起こったシカゴ大火では「テラコッタを使ったビルが多く焼け残った」てな情報も
伝わっていたでしょうから、見栄えともに耐火性も期待できるのならとなったことでしょう。
で、この国産テラコッタ造りに常滑の陶工も挑んでいくことになるのでして、
明治42年(1909年)に建てられた京都府立図書館あたりが
最初期の国産テラコッタを使っているそうです。
そんな国産テラコッタの需要の本格化は、
大正12年(1923年)の関東大震災の後といいますから、
ここでもまた大火絡みということだったのですなあ。
しかしテラコッタの隆盛は長くは続かず、せいぜい20年くらいなものであったとか。
それだけに今となっては貴重な建築遺産ということで、
かつてテラコッタの国産にも関わった伊奈製陶としては「役目を終え解体される
テラコッタ建築の一部を譲り受けながら、コレクションを築いてき」たということで、
「建築陶器のはじまり館」の裏手を「テラコッタパーク」として展示しておりましたですよ。
当然に覗きに行ってみるわけです。
テラコッタと聞いたときの最初の印象は素焼きの植木鉢を思い浮かべるばかりでしたけれど、
どうしてどうして、石造建築に擬した鉄筋コンクリート造の外壁装飾は
要するにテラコッタだったのですなあ。
左はかつて有楽町にあった朝日生命館の外壁を飾ったテラコッタ。
現在の日比谷マリンビルへの建て替えにあたり、
1980年に解体されて際に譲り受けたものでありましょう。
右は横浜松坂屋本館を飾っていたもの。テラコッタは伊奈製陶で製作したものだそうです。
わりと大型のものが続きますけれど、大型だけに瓦礫にされそうなところを
辛うじてパーツ、パーツを譲り受けたりすることになる場合もあるのでしょう、
上は大阪の大谷仏教会館の入口部分です。
下は霞が関の旧自治省庁舎にあったもの、やはり伊奈製陶製とか。
この辺になってきますと、もはやオブジェとして見るべきかという気もしてきます。
左は銀座にあった建築会館、真ん中は武庫川女子大学甲子園会館(この建物は現存)、
そして右が新橋演舞場のものであったそうな。
こうしたテラコッタの装飾が取り外された建物の中には現存しているものもあるようですけれど、
だいたい豊かな装飾があるという場合、建物自体にも建築遺産的な価値を見出だして、
本当に解体してしまっていいのかといった話が往々にしてあるような。
かつては何につけスクラップアンドビルドの発想で、
最新式に置き換えることこそ良かれとされてきたものと思いますけれど、
はたと気付くことがあったのでしょうか、少しは人々の考え方が変わってきたかもしれませんですね。
古いものを懐かしむことが単にノスタルジーであるのかどうか、
そこに籠る思いには人それぞれのものがあって一概に善し悪しは言えないものの、
江戸期には木と紙の家で、大火が起こればスクラップアンドビルドを前提に
火消しも活動していたわけですけれど、いろいろな点でその頃とは様変わりしているからには
必ずしも新しいものこそ良かれと誰もが考えるわけではなかろうなと思うのでありました。