映画「ペーパー・ムーン」をご存知の方は多かろうと思いますですが、

母を亡くしてひとりぼっちになったアディー(テイタム・オニール)が

どうやら生前の母と関係があったらしい詐欺師のモーゼ(ライアン・オニール)に連れられて、

伯母の家に送り届けられる道中を描いた物語ですな。


母ひとり娘ひとりで過ごしてきたせいかなんとも大人びたアディーに

モーゼはやりこめられてばかり。「こんちくしょう!」と思いながらも、

お互いに「もしかして父子かも?」という思いを抱き始めていったのかも。

(その可能性は排除できない設定になっているも、当初モーゼはきっぱり否定してましたが)


ただ、車でのロング・ドライブという濃密な時間を一緒に過ごす中では、

その関係の裏側に「本当の血がつながっているかどうか」はもはやどうでもよく、

むしろ事実がどちらかを知らない方が反ってうまくいくのでもあろうかと思ったりしますけれど

こうしたことに思い至ってようやっと分かったことが。

ああ、この芝居の「血のつながり」というタイトルはそういう意味の言葉だったのかと。

とんだ勘違いですな(笑)。


劇団俳優座LABO公演「血のつながり」@俳優座5階稽古場

このほど見てきた俳優座の稽古場公演、そのタイトルが「血のつながり」でして。

1892年にボストン郊外の田舎町で起こった惨殺事件に取材したという話であるだけに、

勝手にミステリー的な受け止め方をして「血」のつながり?てなふうに思いこんでいたわけです。

が、「血」はいわば「血族」といった意味での「血」だったのですなあ。


とまれ、こちらのあらすじは?ですが、

俳優座HPから拝借しますとこんなふうなのでありますよ。

1892年米国ボストン近郊の田舎で、町の豪農夫婦が何者かによって手斧で殺害された。 夫婦の次女に疑いが向けられたが、証拠不十分で不起訴となる...。

しかし、それに家族も世間も納得していなかった。その疑いは親友の女優の口からも...。 十年間誹謗中傷に耐えてきた次女は、ついに「私の役をやったら」ともちかける。「あなたが私になれるの」。「あの時の事をおさらいしてみたら」と。二人による空想の芝居が始まる...。

興味深かったことのひとつは作劇の点でして、彼女たちが始めた空想の芝居は、

観客にとっては実に唐突な役柄の入れ替えなのですよね。


今の今まで親友の女優であった者が「次女」になり、当の次女は「女中」として動き、

入れ子の芝居が動き出すのですけれど、これを見ている側がそういうものであると

付いていけるというのが全くもって面白いところではなかろうかと。


まあ、全く違和感のかけらもないかといえば、そうとまでは言えないでしょうけれど、

それでもさほどの労なく入り込んでいけるというのはどこから来るんですかねえ。

舞台装置などもそうなんですが、芝居には「見立て」の要素がとても強いですよね。

で、その「見立て」に引き込む(見ていて引き込まれる側の意識とかの)からくりは

いったいどうなっておるのだろうと思ったりもするところです。


と、そんな外形の部分にも興味はあるわけですが、空想の芝居の過程でもって

父と義母に対して「殺してやる」と思ってしまった次女、すなわち彼女を演じる親友は

ふと我に帰って「あなたもこんなふうに考えたの?」と次女に問いかけるのですなあ。


ミステリーものの2時間ドラマによくありますけれど、

刑事役が犯人になりきってみて行動分析するてなことと同様ですね。

ですが、犯人役を演じる刑事役のその向こうにはその刑事役を演じる俳優がいるわけで、

こういうときの演じ方、役作りってのは苦労があるのではないですかねえ。

どこの部分をどのくらい観客に示すのが最善であるかという点で。


劇中で、本来の役とは別の人物になりきって見せる部分があるとする。

その場合、見事に別の人物としか見えないように演じるのがいい場合もありましょうが、

別の人物を演じているっぽさを残しながら演じるてな場合もありましょうしねえ。


映画であっても同様のことはありましょうけれど、舞台の場合には

それが見ている目の前で生ずることにやはり特別さを感じてしまうのではなかろうかと

思うところでありますよ。