ということで、登窯広場隣接の展示工房館 で両面焚倒焔式角窯を見学したわけですが、
なにしろ登窯広場というからにはやはり登り窯があるのですよね。
陶栄窯と呼ばれている連房式登窯です。


常滑の登り窯

16世紀後半に朝鮮半島から唐津に伝わったという登り窯が常滑に導入されたのは

天保五年(1834年)。常滑の陶祖とも言われる「鯉江方寿の父、方教が

真焼け物(まやけもの)を効率よく生産する為に」登り窯を取り入れたのだそうでありますよ。


ちなみに江戸時代の常滑焼には、「真焼物(まやけもの)という硬く焼き締まったものと

赤物と呼ばれる柔かな素焼の製品」とがあったということです。


とまれ、これを契機に登り窯は常滑でも普及し、

明治の末期には60基ほどもあったことが記録されているそうな。
この陶栄窯は明治20年頃に造られたようですので、

最盛期の窯のひとつであったのかもしれませんですね。


ですが、やがては先に見た角窯に取って代わられるになって登り窯は急速に減少、
1974年まで使われた陶栄窯が最後の一基として、

使われなくなった後には文化財として保存されることになったという次第であると。


しかしながら、この陶栄窯、全長22メートルもあるそうですからなかなかに大きいもの。
一目で全貌を捉えることが難しいものですから、

ちと図に頼ってみればこんなふうになっているのだと分かります。

陶栄窯の平面図と断面図


「約20度の傾斜地に八つの焼成室を連ねた」形になっておりまして、
まずもって第一室で火を熾すわけですな。燃料は元来、薪や松葉だったようですが、
これが品薄になると代用品として石炭が使われるようになったとは、意外な。
石炭が品薄で薪が使われた…という話なら頷けてしまうような気もしますが。


陶栄窯の第一室、焚き口ですな


ところで、こちらが登り窯の最低部、ここからがんがん火を焚くのですなあ。

されど22メートルもあるわけですから、その全体にわたって均一に炎が回るわけでもなく、

つうことは部分部分で温度差が出来てしまうはずなのですが、

陶工たちは当然のごとくお見通し。


上の平面図にある通り、側面の途中途中にやきものの出し入れ口がありまして、

火入れに際してはここをレンガのようなもの(ダンマというらしい)で塞ぐも、

完全に塞いでしまわずに少し開けたままにしておき、焚き口にするのだとか。

各室への火の回り具合を見定めて、部分的に薪を放り込んだりするというわけです。



全室を焚き終えるのに11日くらい掛かったというこの陶栄窯。

陶工たちは火の番にあたって昼夜を問わず気を抜くことはできないでしょうから、

さぞ大変だったろうと想像するところです。



裏といいますか、最上部の方へと廻ってみますと上り詰めた煙の吐き出し口、

煙突が並んでいますけれど、その数10本。ここでも規模の大きさが偲ばれますですね。


陶栄窯の10本煙突

しかも、この煙突にも工夫があるというのですが、

写真ではわかりにくいものの、煙突の高さが異なっているのですよね。

内側が低く、外側が高くなっている。これは、通気性を考えた上で

窯の隅々まで均一に焼けるようにと凝らした工夫なのだそうですよ。


これまでにもどこかしらで登り窯を見たことがあったように思いますけれど、

その際には一瞥して「ふ~ん、これが…」てなくらい印象であったような。

それが、いささかなりとも「やきもの」への興味が出てまいりますと

窯の周りを巡って矯めつ眇めつ、解説も気にかけて、となるという。


いやあ、何事も興味次第でありますなあ(笑)。