サンクトペテルブルクの歴史地区観光と言いつつ、

時間の関係もあって「血の上の救世主教会 」の後はもう一カ所を訪ねたのみ。

(何しろエルミタージュ に長くいましたからねえ…)

たどり着いたのはデカブリスト広場でありました。


サンクトペテルブルクのデカブリスト広場(元老院広場)


先に立ち寄ったイサーク広場からイサーク大聖堂 を挟んで丁度反対側にある広場でして、
元老院広場(セナート広場)というのが正式かもしれませんけれど、1825年12月にこの場所で
デカブリスト(Decembristとは12月に起こったからですね)の反乱があったことから、
もっぱらソ連時代にデカブリスト広場と呼ばれたということです。


そうした歴史的経緯のある広場ですけれど、
何といっても目立つのはピョートル大帝の騎馬像でありますね。


ピョートル大帝騎馬像@デカブリスト広場


ピョートル大帝の即位100年を記念してエカテリーナ2世が造らせたものとか。
台座には「ピョートル1世へエカテリーナ2世より 1782年」と刻んでありますが、

(写真に撮った側にはラテン語で、反対側にはロシア語=キリル文字 で刻まれてます)
制作には10年もかかり、台座の石を運んでくるだけで2年かかったとはご苦労な話です。



ところでこの像にも広く知れ渡る別の呼び方がありまして、「青銅の騎士像」というもの。
単に材料でもって呼んでいるだけではないかと思うところながら、
その実、命名の主はかのプーシキンなのですなあ。
「青銅の騎士」というタイトルの長編詩が広く知られたところからだそうで。


で、この騎馬像ですけれど、なかなかに複雑な目に見られている代物のようでありますね。
一面では、あたかもサンクトペテルブルクの守護神でもあるかのように。
Wikipediaにはこんなふうに記載されています。

『「青銅の騎士」が無事である限りは、サンクトペテルブルクは安泰である』という言い伝えがある。第二次世界大戦中の900日にわたるレニングラード包囲戦(1941年 - 1944年)では、この像は台座ごと木枠と砂袋がかけられていた。この言い伝え通り「青銅の騎士」は無事で、レニングラード(当時のサンクトペテルブルクの名前)もドイツ軍の占領は免れた。

作曲家グリエールのバレエ組曲「青銅の騎士」では

終曲にサンクトペテルブルクという都市を意識して「偉大な都市への賛歌」が置かれ、
「サンクトペテルブルクでの音楽会ではアンコールによくこの曲が演奏され、その時には聴衆は

皆立ち上がってこれを聞き、最後にまた拍手喝采をする習慣がある」(Wikipedia)てなことも

青銅の騎士万歳、サンクトペテルブルク万歳てな気分が通底しているのではなかろうかと。


ところが別の一面として、ピョートルの像はあたかも自然をねじ伏んばかりに踏ん張る姿ですが、

元来湿地帯に築かれた人工都市であるサンクトペテルブルクは年中洪水に悩まされていた、
つまりはピョートルは自然に打ち勝つことはできず、その後何百年にもわたってこの都市は
災害に悩まされ続けている…てな見方もあるようですなあ。
実際、プーシキンの詩は洪水と大いに関係ある展開をたどるわけですし。


ピョートルの像が向き合うネヴァ川


像のあるデカブリスト広場(元老院広場)は洪水の元とあるネヴァ川に面しておりますね。
広い川幅を滔々と水が流れ下っていく大河の様相です。しかしながら、このネヴァ川、
驚いたことに全長は74kmほどしかない。多摩川だって138kmあるというのに…。


しかも水源であるラドガ湖の標高はたったの4mですので、
74km先のフィンランド湾に流れ込むのに高低差が4mしかないのですな。
単純な計算でしかありませんが、平均的には川が1キロ流れ下る高低差は5.4cmてなことに。
これはもう溢れてくださいてなものではなかろうかと。


果たして「青銅の騎士」像はピョートルの勝利を讃えているのか、
はたまた自然への無謀な挑戦をし続けている姿を写したものであるのか、
今もデカブリスト広場にあってネヴァ川と対峙し続けているのですな。