六本木の俳優座劇場で芝居を見てきたのでありますよ。
「ハーヴェイ」というタイトルのアメリカの戯曲で、こんなあらすじであると。
アメリカの西部の町。ダウド家の屋敷では、婚活中の娘マートルのお相手探しのパーティが開かれている。しかし母親のヴェイタには大きな悩みがあった。ヴェイタの弟エルウッドが人には見えない巨大ウサギ“ハーヴェイ”と話したり笑ったりしているということ。パーティのお客さんたちにまでハーヴェイを紹介し始めて、お相手探しはぶち壊し‼「このままでは娘が一生お嫁に行けない……」と心配したヴェイタはエルウッドを療養所に入れようとするが……勘違いとすれ違いが巻き起こすコメディの先に、不思議な結末が!!
たまにはコメディ一辺倒の芝居もいいかなと出かけてみたわけですが、
どうやら一辺倒ではありませなんだ。むしろ考えてしまうといいますか。
ある特定の人にしか見えない登場人物を設定するときに、
芝居でも、また特に映画には多いと思いますが、
特定の人にしか見えていないということをなんとなく納得させた(説明した)上で、
その姿を見せて登場させるさせることが、ままありますですね。
だいたい神様役とか天使役てな形で。
ですが、この芝居においてはタイトルロールたる「ハーヴェイ」は姿を現しませんし、
ひと言の台詞もありません。すべては彼の姿が見えているというエルウッドの
誘いのてぶりやひとり語りでその存在を想像させるのですな。
では、この戯曲でそれが必然となったあたりを全くの個人的想像で考えてみますと、
実は見えているというエルウッドにも実は見えていないのではないかということでして。
上のあらすじにもあるように、エルウッドはパーティーの客たちにもエルウッドを紹介する。
客たちにハーヴェイの姿は見えませんから、エルウッドの奇矯さばかりが印象付けられます。
ある人が自分にとって「これがいい」という生活様式なりで過ごしていこうとするとき、
ともすると世の中とぶつかることがありますけれど、「ああ、あの人ならば仕方がない」と
思ってしまってもらえることもあります。言葉は悪いですが「奇矯さ」のある人の場合とか。
ただ、その奇矯さは誰から見ても、そう見えるようになっていないといけない。
エルウッドにとっては、それが「常にハーヴェイとともにいる」と印象付けることだったのでは
ないですかねえ。
ハーヴェイが見え、会話を交わしているという点以外では、エルウッドは至って好人物です。
礼儀正しく、ものごしは穏やか、決してものごとを悪い方に解釈することなく怒るということが無い。
ここだけ見れば非の打ちどころがないとも思えるわけですが、
こうした人物がそのままの姿で世の中にある場合に
反って「変わり者」とも見えたりすることも、実はありましょうね、皮肉なことに。
そんなときに、変わり者として突き抜けたようすを示してしまえば、
つまりこの場合はハーヴェイという大ウサギが見えるということにしてしまえば
「ああ、あの人の妙な礼儀正しさは変わり者の故なんだあね」と理解され、
「なんだってお前はそうなんだ!」みたいなことを言われなくなる、仕方がないね、あの人はと。
ただ、こうした作為はもっぱらエルウッドに限ったものであるはずなんですが、
不思議なことに劇の進行する中では姉のヴェイタにも時折ハーヴェイが見えるようでもあり、
そしてエルウッドの精神治療を託されることになるチャムリー医師もまた
ハーヴェイに遭遇してしまったようすでもあるですなあ。これは何ぞ。
おそらくはハーヴェイなるものが、本当はこうありたいといった自身のありようを
世の中との折り合いからわが身の内に押し込めてしまっているような場合に
ひょいと耳元で「本当の自分でいいのだよ」とささやく天使(善か悪かはともかくも)なのかもです。
それがたまたまにもせよ、エルウッドがケルトに伝わる妖精プーカの伝承に擬えて
(エルウッドの家系はアイルランド移民ということになっています)
大きなウサギという姿を与えられ、周りも刷り込まれているために
ヴェイタもチャムリーもついウサギの姿として見てしまったというところでありましょうか。
世の中には「長いものには巻かれろ」とか「出る杭は打たれる」とかいう言葉があって、
異質なところを嫌う傾向が無きにしも非ず。これはEテレ「100分de名著」の2月に取り上げられた
オルテガ「大衆の反逆」を思い出させるところでもありますね。
「多くの人が良いと言っていることが良い」とはあたかも民主主義そのもののようですけれど、
世には少数意見もあるわけで、多数決で決まった結果を少数派に押し付けることが
適切なありようとは思えないところでして。
まさに番組の中でも言われていたように、「何、食いに行こうか?」といって
「肉!」「肉!」「肉!」「魚!」「肉!」という声が挙がったとき、結果として焼肉屋にいくとして
「魚」といった人に「是が非でも肉を食わせずにおくものか、多数決だぁ」みたいな臨み方は
どうよ…というのが分かりやすくもあるかもしれませんですね。
で、話を戻してエルウッドですが、彼が生きていく中で「肉、肉!」と言っている世の中で
「魚なんだけどなあ」ということを圧殺されるくらいなら、
いくら奇矯にみえようがハーヴェイとともにあり、おいしく魚をいただくというありようを
求めたのだと言えるのかもしれんなと思ったわけでして。
そんな自分らしさの出し方を、瞬間的にもヴェイタやチャムリーはそれぞれのアンテナで捉えて
ハーヴェイが見えた気がしたのではなかろうかと。
そうなってくると、実はハーヴェイは誰のそばにもいるということになりましょうかね。
