リアルタイムでクレージーキャッツ映画 の世代ではないのですけれど、
なんとなく見ちゃうのですよねえ。
ひとつの時代の世相が垣間見えるといいますか…(と、いささか遠い目)。
ただ植木等主演のサラリーマンものなどは環境が身近な分だけ
「んなこたぁなかろう…」と思ったりしてもしまうところながら、
時代を戦国の世に移し替えると、より客観的に見られると言いますか。
もっとも時代考証的なところに目を向けようと思ったりしてはいけんわけですが。
と、このほど見る機会があったのは「ホラ吹き太閤記」なる一作。
植木等の秀吉、ハナ肇の信長、谷啓の家康…いやはやの感じもしますけれど、
「ほぉ~」という部分もあったりしたのでありますよ。
とにもかくに植木等演ずる秀吉のあっけらかんと前向きな生き方に「ううむ」と唸ってしまって。
映画はまず植木等の歌から始まるのですな。
タイトルは「だまって俺について来い」、青島幸男が詞を書いて、
これがシンプルな4行詩ながら実に見事な起承転結になっているという。
「ぜにのないやつぁ俺んとこへこい」と、まずは大きく出るわけですが、次いで
「俺もないけど心配するな」となると、なんだいご同輩かい…となりますなあ。しかし、
「見ろよ青い空白い雲」と曲調が変わって高らかに歌い上げるに及んで、
なんだかずいぶんと器の大きなやつなのかもしれんと思わされてしまう。その上で、
「そのうちなんとかなるだろう」と、結局のところいい加減ではあるものの、
こいつといればほんとになんとかなってしまうのかも的な思いで付いていってしまうような。
この歌の含みに沿うようなふうに、秀吉の出世物語が描かれるわけですが、
決してうまくいく事ばかりではなく、あるときには信長の勘気を蒙って
左遷人事と思しき配置転換を命ぜられることもある秀吉。
されど、「それでは格下げではないか」と声をかける同僚に
「いやいや、どんな仕事でも楽しくやらなくちゃ」と。
この前向きさには素直に「そうなんだよなあ」と思わされてしまったりしましたですが、
これがはっきりとサラリーマン社会を描いた映画で言われたのだとしたら、
ここまで素直に耳を傾けていなかったようにも思うところです。
秀吉の言動に見られる日常的な大言壮語にしても、
サラリーマン映画で「俺はきっと社長になるぞ」と言われると
「はいはい、そうですか」と思ったりするところが、
「俺は城持ち大名になるぞ」と言われたときには自己暗示なんだろうなと思えたり。
で、この自己暗示的な大言壮語を自分に言い聞かせるばかりでなく、
他人にも吹聴することを自己暗示の力を増幅させてもいるような。
ふとした出会いで関わりをもった蜂須賀小六(東野英治郎)には
「天下をとったら、10万石以上の大名にしてやるよ」と。
経緯はともかく歴史的にはそのように実現するんですけどね。
とにもかくにも、このあっけらかんな前向きさ。
サラリーマン映画でも描かれるゆるさ、それを知らない人にも少し分かりやすくいえば
「釣りバカ日誌」のハマちゃんの存在が「しょうもねえなあ」と思われながらも許容されるような
ある種ゆとり?のあった時代は遠く過ぎ去った今となっては、
かかる前向きさは単なるホラ吹きとして眉をひそめられるところでしょうけれど、
こうした気持ちの持ちようは実はヒトにとって大切なことなのかもしれませんですね。
もっとも何かしらの行動が伴わないと、全くのホラ吹きに終わってしまうわけではありますが…。