「坂東俘虜収容所」の世界展を見にBunkamuraのギャラリーにまで行ったとなれば、
ついでといっては何ですが、やはり美術館にも立ち寄ってしまうわけでして。
Bunkamuraザ・ミュージアム では、モスクワのトレチャコフ美術館所蔵作品で構成された
「ロマンティック・ロシア」展が開催中でありました。
2009年にも同じ会場でトレチャコフ美術館の作品展「忘れえぬロシア」が行われて、
これを見たときにはロシア絵画の素朴な底力をひしと感じたところですけれど、
10年経っても(あるいは10年経ったからもういいだろうということなのか)
フライヤーの前面に登場するのはクラムスコイの「忘れえぬ女」なのですなあ。
確かに「アンナ・カレーニナ
の姿でもあらんか」てな点での話題性もあり、
キャッチーな一枚だと思うわけですが、あまりの取り上げられようは
反って食傷を招く嫌いなきにしもあらずの気もするのですよね(ま、天邪鬼なたちですので)。
と、それはともかく今回モスクワからやってきた作品を見たところ、
今回はとりわけロシアの風景画に、感ずるところ大であるなと思った次第でありますよ。
春、夏、秋、冬と四季それぞれに見せるロシアの姿を、
絵画史の中での技法がどうとか、主義主張がどうとかいうところとは離れて(?)
ありのままに見せてくれているといった印象です。
そして、長い長い冬から解放される春、束の間の夏、実りの秋といった
(必ずしも四季が四分割ではなくして)短い季節に注ぐ慈愛のまなざしといいますか、
そんなところを感じたわけなのですね。
とりわけ、イリヤ・オストロウーホフの「芽吹き」やイサーク・レヴィタンの「春、大水」など
春はそれが待ち遠しいからこその慈しみが感じられます。
夏は夏でイワン・シーシキンの「樫の木、夕方」と「正午、モスクワ郊外」とは、
違った傾向ながらどちらにも単に写し取るだけとは違う写実の妙があるやに思うところです。
もちろん厳しい冬でも、時には穏やかな日差しが降り注ぐときはあるもので、
そうした瞬間には画家の目線も穏やかになるのでしょうか、
ワシーリー・バクシェーエフの「樹氷」(1900年)は人影の見えない木立だけの世界ですけれど、
日々を極寒に耐えて過ごすのに対して神様がもたらしたひとときの陽だまりなのかもです。
この他にもイワン・アイヴァゾフスキーの海景画には毎度毎度目を奪われてしまいますし、
イリヤ・レーピンに描かれた肖像画で姿かたちを見ることできたイワン・クラムスコイも
「忘れえぬ女」ばかりが脚光を浴びる中で「月明かりの夜」に見る幻想世界もまた
忘れえぬものなのでななかろうかと。
トレチャコフ美術館展は前にも見たしと思って、ついで的位置づけで立ち寄りましたですが、
やはりトレチャコフ美術館そのものにもいつか行かねばという思いを新たにさせられますね。
そんな行き先ばかりが増えてしまっても困ってしまうばかりではありますが(笑)。



