ベルリンでもってチェックポイント・チャーリー から歩くことしばし、
たどり着いたのは「Topographie des Terrors(テロのトポグラフィー)」という資料館です。


テロのトポグラフィー@ベルリン

看板にもありますように、かつてはゲシュタポやSSの本部が置かれていた場所にあたるとか。
資料館の中は当然にしてナチスに絡むものであるわけですなあ。これまた負の遺産ですが。



かように「ベルリンの壁」の部分を利用した展示もありますけれど、
屋内展示は実に明るくきれいな建物の中にありました。



アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党の盛衰を
パネル展示でたどれるようになっておりましたですよ。



前史から言いますと、第一次大戦の敗戦後に誕生したドイツ労働者党に対して、
戦後も陸軍に残っていたヒトラーが潜入スパイを命じられたことに端緒がありますね。


ですが、潜入スパイだったはずの側がいつの間にやらその党を乗っ取ってしまい、
その名も国家社会主義ドイツ労働者党と改めて、旗は作るは、制服は作るは、
敬礼の仕方は決める(ムッソリーニの真似ですが)はとヒトラーの私物となっていくとは
命じた陸軍では思いもよらぬことでありましたでしょう。


折しも第一次大戦の結果として膨大な賠償金を設定され、戦後復興もままならないドイツで
国民は困窮を極めることになったわけですが、そうした中で「そんな賠償には応じられない」、
「再軍備も進める」などといった勢いのいいことを言うわけですから、ヒトラーの弁舌に
気持ちのスカッとする思いを抱いた人たちも多かったのでありましょうね。


ですから、ムッソリーニがローマ進軍を通じて無理やり政権を奪取したイタリアに比べ、
ドイツの場合は当時最も民主的とも言われたワイマール憲法下の選挙で
ナチスが第一党になったという事実はありますから。


それにヒンデンブルク大統領との折り合いが決定的に悪かったヒトラーは
その後の独裁状態から考えられないほどに、ヒンデンブルク大統領に対しては
首相指名を受けるための懐柔策を取っていたようで。


とまれ、ナチスは議会第一党となり、ヒトラーは大統領から首相指名を受ける。
ここまでは合法的にも見えるところですけれど、首相になってからの動きは
後の電撃作戦さながらでありましょうかね。


首相就任からひと月も経たない1933年2月、国会議事堂の放火事件が起こると
(今ではもっぱら単独犯の犯行であったと考えられているようですが)
これを共産党の組織ぐるみの犯行と断じて、活動を非合法化してしまう。


国民困窮の折にナチ同様に議席を伸ばしていた共産党の議席は
議会定数から減じられることとなったおかげで、ナチスは単独過半数を占め、
弱小政党と連立を組むことで議会の3分の2を制して、
ナチスの一党独裁を可能にする全権委任法を通してしまうわけです。


映画などでよく見かけるのは、こうしたヒトラー始めナチスに
例のローマ式敬礼と歓呼の声で群衆が讃えている姿でありましょうか。
ついついドイツはナチズム一色と化してしまったかとも思ったりするところです。


されど、例えばトーマス・マン がナチスを批判し続けたように
文化人、有名人の目立つ活動はあったとして、一般市民としてはどうか。
なかなかに態度では表しにくいと思われるところながら、
資料館の展示写真のひとつにふと目が留まったのでありますよ。



ナチスの集会としてはよく見る光景…かと思えば、丸印で囲まれた人物に注目。

この丸印は展示パネルそのものに付いているのですから、

当然にして注目してもらいたいところなわけですね。


先に触れたトーマス・マンのような人の場合、ナチスへの批判は確信的でありますが、

多くの一般市民はその反対に付和雷同的でもあろうかと思ってしまうところです。

さりながら、丸印の人物のようにナチスの話に対して「ほんとかよ…」と懐疑的な目線を

送っている人もいたのですなあ。


トーマス・マンだったら集会なんぞに出るまでもなく嫌悪感を露わにするのではと思いますが、

この人物はとりあえずみんなが行くから集会には行くものの、胡散臭さを感じ取っているのが

何とはなし表情に出ているではありませんか。


こうした人たちはおそらく少なからず(ただ決して多くもなく)いたことでしょうけれど、

勢いが圧殺していったのでしょうねえ。


全体が同色に染まっているというのはもちろん怖いことながら、

染まらない部分が何らか排除されるとしたら、これまた怖いことでありますね。


そんなことを考えたりもした「テロのトポグラフィー」なる資料館。

ちなみに同館のリーフレットから全体を見渡す写真を借用しますと、このような。

今は広々すっきりとした場所になっていますが、そんなようすとは正反対の歴史が

館内と外の壁沿いにしっかり刻みこまれているのでありました。


「テロのトポグラフィー」リーフレットより