アムステルダムのレンブラントハウス を訪ねて、

まずその居住空間を見て回りましたですが、今度はさらに上の階へ。

アトリエと工房があるのでして。



アトリエといって、この片隅を見るだけでは何とも殺風景でありますけれど、

振り返ってぐるり見てみれば、「おお!」ということに。




あたかも学校の美術室のように古代ギリシア・ローマふうの像が並ぶのは

デッサンのために必要として、それ以外にも数々の品が。


まあ、静物画にはさまざまな物を並べて描かれますのでそれ用かとも思うところですが、

さながらがらくた箱というか、Wunderkammerとでもいいますか。

何しろ天井にはアルマジロ(だと思う)の剥製まで吊り下がっていて…。



でもって、もひとつ上の階には工房がありました。

最上階とは今なら見晴らしが良く賃料も高いとなったりしますが、

この当時はひたすら階段での上り下り。上階が良いとばかりは言えないのでしょうね。



とまれ、かように仕切られたブースのひとつひとつで弟子たちは制作に打ち込む。

時には階下のアトリエに皆が集まってモデルをデッサンしたり、

仕上げはこちらで黙々とということですかね。



ところで、レンブラント作品(レンブラントの真筆)はいろいろと研究が進められるにつれ、

どんどんと数が少なくなっているようですなあ。


それというのも、当初はレンブラント本人の手になるものと思われていたものが、

よくよく調べてみると、弟子の誰それの作、工房の誰かしらの作と

確認(ま、意見の分かれるものもあるものの)されるようになっていった結果であると。


工房を率いて弟子たちとの共同作業で作品を作り上げる例は

古くイタリアにもありましたし、ルーベンスの工房あたりは思い浮かべやすいところですよね。


ここでは共同作業というのが大きなポイントでして、

ご存知のようにルーベンスの作品には巨大なものが多く、

しかも発注には次々と応じていかなければならないとなれば、

工房でシステマティックに仕上げていく形は必要不可欠なものであったと思うところです。


ところが、レンブラントの工房はといいますけれど、

たくさんの作品を仕上げる必要はあったと思うところながら、

その作品がルーベンスほどに巨大ということは無い。

ですから、共同作業は必ずしも必要なかったということになるのですなあ。


では弟子たちは何をしていたか?ですが、レンブラントの模写に励んだようで。

これは弟子としての修業の一環であると同時に、

レンブラント工房の作品を作り上げるということでもあったのではないかと。


結果として、レンブラント工房から送り出された多くの作品は

レンブラント作品として受け入れられて、後世に伝わっていった…のでありましょうが、

実はレンブラントが弟子にやらせたのは単なる模写ではなかったようで。


つまり、レンブラントの描いたところをそのままなんの加工も変化も加えず写し取るのでなく、

弟子自らの創意工夫を入れることを否定してはいなかったようでありますよ。


レンブラント作あるいは工房作と言われる作品に類似作があるのはこうした理由でもあって、

「レンブラントの自画像」と呼ばれるものの中にも、今では弟子のヘーラルト・ダウ作であったり

レンブラント工房の作であったりというのがあるようですし。


結局のところ、かような工房作品がレンブラント作として出回ることに

レンブラント自身には不都合が無かった(自作としてなら高値になりましょうね)わけで

レンブラント作と言われるものがたくさん残ったのでしょうけれど、

弟子に創意工夫を許したところが後の研究では「真筆か否か」をある程度判断するのに

材料を提供したことになるのでありましょう。


レンブラントハウスの工房で見た、小さく区切られた弟子たちの居場所。

著名画家となっていたレンブラントの作品を誰よりも早く目の前にできた上に、

それを模写するという修業としても、自身の創意を加えられる創作の場所でもあったとは

17世紀当時、そこに腰かけてキャンバスに向かう弟子たちの高揚した心持が

伝わってくるようでありましたですよ。


と、この工房を訪ねるのであれば、事前に講談社選書メチエの一冊
「レンブラント工房―絵画市場を翔けた画家」を読んでおかれるといいかもですね。


レンブラント工房―絵画市場を翔けた画家 (講談社選書メチエ)/講談社

個人的に読んだのは事後になってしまいましたけれど、

読んでから出かけるとレンブラントハウスがより面白い視点で見られることでありましょう。