アルクマールのチーズ市 を訪ねてアムステルダムに戻ったところで、
滞在先のホテルを移動したのでありますよ。


ここまで3泊していたホテルに何かしら不具合があったとかいうのでは無くして
同じホテルに5泊もしては朝食にも飽きがこようという同行者の考えによるもの。
一人で出かけたこれまでの旅ではそこまでのことはしたことがなかったなあと。


とまれ、先のホテルはミュージアム広場 に近く観光客がわんさかいたですが、
トラムの電停で3つほど移動した先では広い通りに面していても人通りは少なく、
まあ、静かな環境とは言えそうです。



ところでそんな場所にあるホテルで、そのロビーの佇まいに「ん!?」と思ったのですなあ。
何やら東南アジアのイメージ?とでもいうような…。




はたと気付いてみれば、それはインドネシア・テイストを演出しているというか。
ああ、オランダだけにインドネシアであったかと思いましたですよ。


実際、ホテルのメインダイニングはインドネシア料理のレストランでしたし、
これまた思い返してみれば、アムステルダムの町なかには
インドネシア料理の店がわりとそこここで見られたなあとも。


オランダは国土に恵まれていませんので、海洋国家として立つところがあったのでしょう、
スペインやポルトガルによる大航海時代の幕開けから遅れますけれど、
それまでの沿海での交易を越えて大洋に乗り出すようになったのは16世紀末であったそうな。


オランダが大航海に乗り出すことになった、あるいは乗り出さざるを得なくなった理由は
いくつかあるようですけれど、これまでも参考にしてきた一冊、「物語オランダの歴史」から
探ってみれば、かようなことであるようです。


まず前提としては、先にも触れましたように沿岸部での海上交易が盛んで、
操船技術を磨いてきていたということ。
そして、大きな転機は1580年にポルトガルがスペインに併合されてしまったことが
挙げられるようなのですね。


これがいったいどうオランダと関わるかと言いますれば、オランダでは当時、
大航海の賜物であるアジアの物産(特に香辛料でしょうか)を

ポルトガルから入手していたのですね。なんとなれば、スペインは常に敵でありましたから。


そのポルトガルがスペイン王に統治されるところとなってしまい、
オランダとしては自前で交易路を作り出さなくてはならない事態となったというわけです。


加えて、同じ頃に南部ネーデルラントがスペインに再征服されてしまい、
カトリック化が強要されたことで、商工業や交易を握っていた南部のカルヴァン派が
「資金とノウハウと通商網などを携えて」こぞって北方に移住してきたことも
遠洋へ漕ぎ出すようオランダの背中を押したようでありますよ。


そうした要素が絡み合って、大航海へと踏み出したオランダは
先例に倣って(そんなことは敵国スペインに倣わなくてもいいのですが)植民地を持つように。

新大陸のニューヨークはかつてニューアムステルダムと呼ばれたオランダ植民地ですし、
南アフリカで使われているアフリカーンス語がオランダ語由来であるのも植民地だったから。
このいずれもがやがてイギリスに簒奪されていくのではありますが。


そんな中にはあってインドネシアは

イギリスとの確執、太平洋戦争時の日本軍統治などはあったものの、

17世紀初頭にオランダ東インド会社が覇権を確立するようになって以来、
一貫して(1949年にオランダがインドネシア独立を承認するまで)オランダ植民地でしたですね。


だから、ハイアットのロビーがインドネシア・テイストを醸し、
アムステルダムの町なかにはインドネシア料理店が多いほどの関係ができた…とは

言えそうもないのですけれど。


ヨーロッパ域内では小国であるがために、大国から脅かされてきたオランダが
自分より弱い者を見っけとばかりに、インドネシアから搾り取ろうと目論んだようですから。
あたかも奄美大島に対する薩摩藩のごとし(この辺りは「ブラタモリ」で扱ってましたですね)。

ずいぶんと阿漕なことをしてきたようなのですなあ。


まあ、植民地に対するふるまいはいずこも同じというものの、

オランダの場合は第二次大戦終結後もしばらく蘭領東インドを手放したがらなかったという

往生際の悪さを見せる。インドネシア独立を承認したのが1949年といいましたように。


独立前後には内戦状態になって不利な側がオランダに逃げ込んだり、

はたまた長らく植民地のオランダ人としていた人たちが本国に帰ってきたりする。

オランダに見られるインドネシア・テイストはそのことが理由なのかもしれません。


ところで、独立前のインドネシアがバタヴィアと呼ばれていたように

かつての世界史の授業でもって思い出されるところなのな。


確かにそうした呼び方をされてはいたのですけれど、

そも「バタヴィアとは?」となりますと、これが実はオランダそのもののことであったのだとか。

ウィキペディアにもこんなふうに出ておりましたよ。

バタヴィアの名は、古代ローマ時代に今のオランダにあたる地に住んでいたゲルマン人の一部族、バターウィー族(Batavii)に由来し、オランダ地方の古称でもある。この名称はオランダ本国でもフランス支配下のバタヴィア共和国(1793年 - 1806年)として使われたことがある。

インドネシアは2019年に独立70年を迎えますが、

この間にはインドネシアが自立の努力をしてきた一方で、

オランダの方もまた植民地頼みでない自立の努力をしてきたのでありましょうね。