アムステルダムの町中を歩いておりますと、何かと目にとまるのが「XXX」なのですなあ。
こんなところにも、あんなところにもという感じで。



どうやらこれは市の紋章と関わりがあるようす。
図像的には「X」というより「✖」が三つの形ですけれど、聖アンデレ十字と関係があるとか無いとか。
どうやら云われはよく分からないようです。キリスト教起源かもしれませんですが、
そこはそれ、オランダとキリスト教の関わり ですから、由縁が忘れられてしまったのかもしれませんですね。


いつ作られたのかも不明ですけれど、正式な紋章は(Wikipediaから借りてきますと)こんなふう。
で、歴史の変転によってはここの建物にもこの紋章が据えられ、
「✖✖✖」の旗が翩翻と翻っていたのかなと、町をそぞろ歩いて到着したのが王宮なのでありました。

アムステルダム王宮


まあ、建物としては大きいですけれど、

王宮と言われてピンとくるほどの威容ではありませんですよね。
それもそのはずと言ってよいのか、そもそもこの建物は

1648年にアムステルダム市庁舎として建てられたもの。

350年間かわらず市庁舎であり続けた建物なのですが、

1806年、ナポレオン によって送り込まれ、国王となった弟のルイ・ボナパルトが

2年後に王宮として以来、「王宮」としてあるというこなのですな。


ですので…と言っていいのかはわかりませんですが、今も観光的には「王宮」と言われながらも
現在に続くオランダ王室ではこの建物をもっぱら迎賓館的に使っていて、
王宮=王様の住まいとはしていないもようです。


とはいえ、ナポレオンが1813年にライプツィヒの戦いで

プロイセン、オーストリア、ロシアの連合軍に敗れると、
フランスの北側に一定の国力を持った緩衝地帯を作りたかったイギリスが後押しして、
ベルギーをも含めたネーデルランデン連合王国が作られることになりますが、
国王に迎えられたウィレム1世はとりあえず(?)アムステルダムの「王宮」で
主権君主であるとの名乗りをしたのだそうでありますよ。


ところで、商工業者の強かったオランダではそれまで直接的に王様をいただくことなく、
独立しているときには共和国の形態であったところながら、19世紀初頭になって改めて、

そして敢えて王政となった背景には束の間の王様ルイ・ボナパルトの影響がるようですなあ。

以前、ディック・ブルーナの「うさこちゃん 」の話に絡んで、
オランダ語でウサギを「konijn」と言うと記したことがありましたですが、
ルイ・ナポレオンは国王の即位式にあたり人々に少しでも快く迎えてもらおうと
一所懸命に練習してオランダ語でオランダ国王たる宣言をしようと目論んでいたそうな。


さりながら、うっかりにもせよ

「Ik ben konijn van Holland.」(私はオランダのうさぎである)てなことを
言ってしまったとか。王様は「koning」なのですけれどね。


まあ、当然にして失笑を買ったことは間違いなかろうと思うところながら、
その後には「被災者の父」などとも呼ばれるようになるほど災害対策には迅速な対応をとり、
実は国民思いの王様であるであると知れるようにもなっていったところから、
「王様がいるのも悪くない」という雰囲気が生まれてようでもありそうで。


そもそもナポレオンがオランダに弟を送り込んだのは対イギリスの政策として
大陸封鎖を強固なものにしたかったのですな。オランダは貿易立国でもありますから、
なかなか言うことを聞かず、イギリスとの密貿易は引きも切らなかったのですな。


そんなナポレオンの思惑は当然に知っていたでしょうけれど、
自ら国王たる立場にもなってみれば国民を思い、国を富ませて人気者にもなりたいと
ルイ・ボナパルトは思ったのでしょう。

どうもナポレオンの言うことを聞かなかったようです。


とまれ、そんなふうに決してナポレオンの傀儡にはならなかったルイ・ボナパルトは
先に触れたネーデルランデン連合王国の成立以前の1810年、

ナポレオンによって退位させられてしまう。

後はたった10日間だけルイ・ボナパルトの息子(後のナポレオン3世の兄)が

王位を継ぐも、結局はフランス直轄になってしまったとか。
この、元は市庁舎であった王宮はそんな歴史の変転を間近で見続けてきたのでありましょうなあ。