秩父・羊山公園 の片隅にあるふたつの施設を訪ねたわけですけれど、
まずはこちらの「武甲山資料館」へ。


武甲山資料館@秩父・羊山公園


日本百名山にもその名を連ねる武甲山は、秩父の方にとっては見上げればいつもそこにあって

どっしりとした安定感がやすらぎをもたらす…てな山でもありましょうか。
古くから「神奈備山」(かんなびやま、神様のこもる山)として崇められてきたそうな。


秩父銘仙に触れた際のいわれとも関わりますが、
「崇神天皇の時代に知々夫彦命が知々夫の国造に任命され」た頃から
武甲山は「知々夫ヶ嶽」と呼ばれるようになり、その後何度か呼ばれ方が変わりますが、
「日本武尊が登山されて武具・甲冑を岩蔵に収め、東征の成功を祈った」という伝説が

江戸期に定着、以来「武甲山」となったということでありますよ。


史実としては平安時代、山麓の一帯に「武光庄(たけみつのしょう)」という荘園が

成立したことからその当時には「武光山」と言われていたようで。
この「武光山」を音読みした「ぶこうさん」という音が

江戸の人たちの記憶にも残っていたのかもですね。


そんな由緒のある武甲山は今でも秩父市街を見下ろしていますから、

普段ならば写真に収めるのは簡単なことながらこの日ばかりは曇天で

その姿も隠れがち。資料館にあった写真で代用しますとその山容はこんなです。



で、この武甲山を昭和35年(1960年)頃に撮影されたという下の写真と比べてみて、
いかがでしょうか。違いが目にとまりましょうかね。



まず山頂の形が全く違ってますですね。そして、右側に続く稜線が昔はずっと高かった。
ひとつ後ろの山並みが頭しか見えないくらいですから。


では、どうしてこんなことが?!となりますけれど、
以前に秩父を訪ねたときにも触れました し、それ以上に一般によく知られたことでしょう、
石灰岩の採掘ですっかりようすが変わってしまったというわけなのですね。


秩父セメント(現・秩父太平洋セメント)を始めとしたセメント会社の事業所があるものですから、
石灰岩といえばセメントの材料と思い込みがちなところながら、

資料館の展示には石灰の使い途が実に多様で、ガラスや肥料、化粧品、歯磨き粉、

砂糖、合成ゴム、ペンキなどなどの製造に使用されるとのこと。


そうした需要を支えるために、全山これ石灰岩の武甲山は

正にその身を削って尽くしたきたのですなあ。


武甲山の変わりようというのは傍目から見ても「痛々しい…」と思ってしまうところながら、
実際には、というか現実的にはどう受け止められているのでしょうかね。
おそらくは絹や織物で潤った時代が過去となったときに、いわばセメント城下町的な形で
人々に働き口を提供したかもしれないですし。


確かに古来、神が宿ると言われてきた山ではあるも、背に腹は代えられない。
むしろ山に縋ってこそ生きていけると割り切らざるを得なかったような歴史も

またあるのかもしれません。


生産性重視の時代に山はすっかり形を変えてしまったものの、

だんだんと環境意識といったものが高まり、地肌むき出しになってしまったところには

植林していくといったことも行われているのだとか。

今はバウムクーヘンの層のように見えるところが

やがては一面の木立ということになっていくのでありましょうかね。