読響の定期会員になって以来、12月には恒例の「第九 」演奏会。

といっても、昨年の今頃は突如襲い来た肉離れで安静を強いられ、

聴き逃したりしてましたなあ。あれから一年か・・・。


読売日本交響楽団 第202回土曜マチネーシリーズ@東京芸術劇場


ところで、今年の指揮者はエマニュエル・クリヴィヌとフライヤーは伝えとりますが、

健康上の理由で来られなくなったとのこと。

よもや肉離れではないでしょう・・・と茶化しては叱られてしまいましょうけれど、

ともあれピンチヒッターはサッシャ・ゲッツェルなのでありました。


1970年生まれだそうですから若手とは言えないでしょうけれど、

まあ働き盛り(?)ということで、きびっとしゃきっと駆け抜ける第九でありましたよ。

指揮者の意向でしょうかね、楽器配置に個性が出ていたところから聴こえて来るのも新鮮な響き。

いくらでも楽しみようのあるのが、いかにもクラシック音楽でもあろうかと思うところです。


と、そんな新鮮な面白みとは全く違う話になりますが、

悪く言うと耳タコ状態の第四楽章、「歓喜に寄す」を聴きながらふと思ったのですよね。


例えばですが、近所にどうも折り合いの悪い人が住んでいて、

日頃からなにくれとなく難癖をつけてくるだけならばまだしも、

こちらの家にボールを投げ込んでは知らん顔するようなことまでやり始めた。


ガラスでも割られたら大変だと窓にシートを張ったところ、

今度は投げ込むボールが大きくなったり、より堅いものになったりと

張り合うようにエスカレートして、危なくてしょうがない。

いっそこちらから仕返ししてやれば、少しは大人しくなるだろうか・・・。


しかし、よく考えてみると折り合いの悪い人の家に仕返ししてやろうかというのはどうよと。

何しろ折り合いの悪い人の家族がそろってみな同じような人であるとは分かりませんし、

むしろいきり立つ人に言いくるめられているのかもしれませんものねえ。


 

ですから、とりあえずいきり立ってしまっている人はおいておいて、家族の方に

こちらにはともかく普通に近所付き合いできればそれでいいんですよ、

お互いそうやっていった方がいいじゃないですかてなことを分かってもらったらどうかと、

まあ、カラオケ大会でもやって一緒に大きな声で歌ったりすれば解きほぐれたりすることも

あるんではなかろうかと思ったりしますですね。


家どうしの話はそれとして、個々のレベルで付き合ってみれば

あなたも私も単に人間なのねえということに改めて思いをいたすことがあろうかと思うわけです。


まあ、何の例え話であるかはすぐお気づきになるやもしれませんですが、

現実問題はそんな簡単な話ではないとはいえ、軍事費に5兆円つぎ込むことが

最善策とはいささかも思えないのですなあ。


それなら、市民レベルが寄り集まって一緒に「歓喜に寄す」でも歌ってみれば、

大盛りあがりするのではないかなと思ったりしたのでありますよ。

今回公演のプログラムに載っていた歌詞の訳の一節はこんなふうでありましたしね。

時の流れに激しく引き裂かれた者も

神の不思議な力によって再び結びつき

神の柔らかな翼のある場所ですべての人々は同胞となる


おそらく日本は稀に見る「第九」大国ではなかろうかと。

取り分けこの時期にプロの音楽家のみならず、

あちこちの地域で「第九」が演奏され、歌われているという点から見ても。

そうした独自性を生かした民間外交があってもいいように思えてきたりしたのでありすよ。


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