ベルギーはブルッヘで観光に乗り出そうとするもお天気が悪く、
屋内での見学という方向に舵を切って入り込んだ最初、
それがこちらの美術館、Arentshuis(アーレンツハウス)でありますよ。
ちなみに「huis」は「ハイス」と当てられてますですね。
10年前にベルギーからオランダへ抜ける旅でフェルメール を見に行ったときには
「マウリッツハイス」という言われ方をそのまま受け止めてましたけれど、
ほんの少しばかりオランダ語に触れた耳からすると(綴りは「huis」ながら)
音は「ハウス」と聴こえますまあ。
こうしたことを知る以前は、長崎の「Huis Ten Bosch」を
「ハイステンボス」でなくって「ハウステンボス」と呼ぶのは
日本人にとっての分かりやすさを求めてでもあらんかと思ってましたが、
聴感的にはむしろ「ハウステンボス」でよろしいようで。
と、余談はそれくらいにして、このアーレンツハウス、別名をブラングィン美術館というのですね。
ブラングィンといって思い出すのは2010年に上野の西洋美術館で展覧会が開催された
フランク・ブラングィンということになりますけれど、まさかあのブラングィンであるか?と。
ベルギーという国はフランスという大国が隣にあることからも、
海を隔てて向かい合わせの英国との関わりが強いですよね。
元来ブルッヘの繁栄はは英国からの羊毛を使った毛織物も商いが大きかったでしょうし。
英国の側にとってもフランスより敷居が低かったのでしょうかね。
行き来は頻繁でもあるようす。
しばらく前に読んだサッカレーの「虚栄の市」 でも
ナポレオン 戦争のようすと遠巻きに見てやろうという英国の有閑層が
ベルギーにやってきて英国にない?美食やらなんやらを堪能するさまを描いていたような。
とまあ、かように海の向こうとこっちで深い関係にあるわけですが、
そうした背景が国籍として英国の人であるブラングィンがブルッヘ生まれであることに
関わりなしとは言えないのではなかろうかと思うところです。
もっとも1867年生まれのブラングィンは
一家ともども1874年には英国に戻ってしまい、ブルッヘではほんの幼少期を過ごしただけ。
とはいえ、ここブルッヘにブラングィン美術館がある理由のほどは分かったのでありました。
さて、いいかげんに展示作品に目をむけるといたしましょうか(笑)。
西洋美術館での回顧展を見たところでは「船」と「労働者」の印象が強かったもので、
これもまたひとつのヴィクトリア朝…と思ったものでして、その面目躍如的作品がある。
上は船の積み荷をおろす人々、そして下はチェーンを作る人々を描いたものです。
が、上の絵にはそこはかとなくエキゾチシズムを感じる…と思えば、タイトルには
「Bushire」という地名らしき一語があり、どうやらこれはイランのブーシェフルのことらしい。
ブラングィンの生きた時代、この地は英国の占領下にあったようでありますよ。
と、そうした筋骨系の絵がある一方で、趣きの異なる題材でも描いていたのですなあ。
そうは言っても「The slave market」というタイトルですので、決してロマンティックなものではなく。
オリエント趣味の指向性はあったのでしょう。
ところで、展示室の一角に何とも抒情的な版画作品が掛けられていて、
「これもまたブラングィンの別の側面?」なんつうふうに思ったのですね。
確かにブラングィンは版画も手掛けているようですけれど、
こちらのような作品であれば、いかにもブラングィンの手になるものと思うところですね。
ですので、さきほどの抒情的版画作品に近寄ってみたところ
「Yoshijiro Urushibara」という記載を発見。
「え?日本人の作品がここに?」と思いますですねえ。
検索してみますと、漆原由次郎という木版画家で
「漆原木虫」としてWikipediaに項目が立っているのですから、知られた人なのでしょう。
個人的には知らなかったですが、Wiki ではこんなふうに。
木虫は日本の伝統木版画による技法をヨーロッパに伝えており、大正13年(1924年)にはフランク・ブラングィンの木版画作りを担当していた。
つうことで、ブラングィンが描いて漆原が版を仕上げるという共同作業があったようなのですね。
大英博物館(漆原はここから招聘されて渡英したようです)の東洋版画部長を務めた
ローレンス・ビニョンの詩作にブラングィンが原画をつけ、これを木版画化したのが漆原で、
この詩画集のタイトルが「ブルージュ」というのですから、先に見た抒情作がここにあって
不思議でもなんでもないのですな。
ちなみにこの詩画集はブラングィンゆかりありの西洋美術館@上野にも所蔵されてますが、
それはともかくとして、ブルッヘとブラングィンと漆原、「ほお~」と思う関係に思いを致す
アーレンツハウスなのでありました。