「五月花形歌舞伎」@明治座を見てきたですが、「明治座でも歌舞伎やるのですなあ」と。
明治座と聞くとどうしても、演歌歌手が座長になって歌に芝居に…のひと月公演てなものばかり
思い浮かべてしまうのでありまして。
ところが場内2階ギャラリーの「明治座140年」なる展示を見ると、
元はやっぱり歌舞伎のための芝居小屋。
明治の頃には初代と二代目の市川左團次が座元として大いに賑わったようですが、
大正になる頃には新派が明治座を受け継いだのだそうで。
歌舞伎を「旧派」というに対しての「新派」や
新しい(歌舞伎ではない)国の劇としての「新国劇」など
芝居の革新に一役買ったのが明治座だったのかもしれませんですねえ。
♪浮いた浮いたと浜町河岸に浮かれ柳のはずかしや
こんなふうに「明治一代女」に歌われる浜町河岸はすでに暗渠となって、
些かの風情も残してはおらないようですけれど、そこから程近い明治座では
新派劇としての「明治一代女」が上演されたりしたかもしれません。
だからこそ、かつては新派や新国劇で喝采を浴びた演目を今に伝える公演が
明治座では掛かったりするのかもしれませんですなあ。
で、今回の「五月花形歌舞伎」も、昼公演ではかつては新国劇で「国定忠治」と並んで
大人気を博したという「月形半平太」が取り上げられている。
昨年の6月に新派公演@三越劇場で「国定忠治」を見て
「うむ、面白い」と思ったものですから、「月形半平太」を見逃す手はないというわけでありますよ。
子供の頃にチャンバラ遊びをした…というほどの歳ではありませんが、
それでも「国定忠治」の名台詞「赤城の山も今宵限り…」を知っているように、
たまたま傘を持たずに遊びに出て折悪しく雨が降り出してしまったときには
「春雨じゃ、濡れていこう」てな台詞をまだ子供でも知っている時代ではありましたなあ。
この「月さま、雨が…」「春雨じゃ、濡れてまいろう」という台詞が
「月形半平太」から来ていることだけは何となく知っていましたが、予備知識はそれくらい。
フライヤーに配された3人の人物(全て片岡愛之助ですが)の一番上、
月代のところが「デビルマン」が思い出されるような形に髪を残してあるのが
月形半平太の定型かなとも思いますが、ともあれストーリー的には白紙の状態で見たわけです。
と、これが何とも想定外といいましょうか、時代背景は幕末、
坂本龍馬の手引きによって西郷隆盛との間で薩長同盟の締結を目指す桂小五郎が
京から長州に戻って藩論を纏める間、京の同志が血気に逸ることのないよう後事を託したのが
何と!月形半平太であった…というのですから。
馴染みの芸妓梅松(中村壱太郎が演じますので歌舞伎と言えば歌舞伎か…)との間で
先のしっとりした台詞が語られるように、美男子でもてもてという半平太。その一方で、
「俺が倒せるとおもうてか!」という一喝で大人数の敵を退散させるツワモノでもある人物とは、
出来すぎの感ありではありますけれど、芝居としては面白い見せ場だったりもするのですよ。
最後の最後は桂小五郎を騙った手紙に呼び出され、
囲んだ新撰組の面々を相手にひとり獅子奮迅の大活躍。
この辺りの殺陣は歌舞伎の様式化されたものとは違うスピーディーさとシャープさで
新国劇の真骨頂だったのではないですかね。
とまあ、思った以上に楽しめた芝居「月形半平太」であったわけですが、
少しばかり気になったことがありまして。
初演は1919年(大正8年)だそうで、
おそらくは今ほどに歴史に疑問を持たなかった時代でしょうけれど、
どうも月形半平太の格好良さと無念の死にざまには
明治維新後の薩長史観の刷り込みを上塗りする効果があったのではなかろうかと
思ったりしてしまうのですなあ。
ところで、月形半平太には実在のモデルがいるのだそうな。
國重正文という長州藩士が「明治維新の頃には桂小五郎と一緒に行動し」
「幕府の追手より逃れる為に月形半平太と変名していた」てな話がある一方で、
「福岡藩士の月形洗蔵と土佐藩士の武市半平太をモデルにした」ということも、
両方ともがWikipediaに記載されているという。
はて、どうしたことかと思うところながら、ともかくかっこよくてひたすら強い月形半平太は
完全フィクションの人ということで良いのではないですかね。
昔々の子供ならみんな知っていたであろう月形半平太、
ようやっと知る機会を得たのでありました。