5月1日は「すずらんの日」だそうですが、
たまたまにもせよ花の話…というより「椿姫」の話をしようと思っていたところなのでありますよ。


ヴェルディの歌劇「椿姫」にもまたちと特別な思い入れが。
と言いますのも、初めてオペラの実演に触れたのが「椿姫」だったのでして、
大学の卒業旅行で出かけた初の海外渡航、ヨーロッパをぐるぐる回る中で訪ねたウィーンで
国立歌劇場の天井桟敷に陣取り、前奏曲の最初の一音が弦で奏でられたときの印象、
「これがウィーンの音くゎぁ!」というのが忘られぬ思い出となっておるものですから。


その時の印象でがちがちになっているものですから、
それを壊してはなるまいとその後に「椿姫」に近づくことはしてなかったですが、
さすがに何十年も経ったことだしと先月のMETライブで「椿姫」を見てみることに。


METライブ2016-2017「椿姫」

しかしまあ、たまにオペラを見にいってああだこうだ言うことがありますけれど、
どうもオペラを「芝居」として見てしまう傾向が強いせいか、
本来の楽しみ方とは違った感想を残してしまいがちなようですな、個人的には。


改めて見た「椿姫」に関しても、
これまたたまたまにもせよ先日のEテレ「らららクラシック」でこのオペラが取り上げられ、
解説に登場したテノールの錦織健曰く「オペラは歌のドラマ」てなふうに言ってましたが、
とにもかくにも「歌」が作品の命であって、何にもましてそれを楽しむべきであるのが
オペラということになるのでありましょう。


ですが、上のフライヤーの惹句に「恋人のために身を引く薄幸の高級娼婦!」とあるように
要するに悲恋物語であって、それがヴェルディらしく壮大に描き出されるのですね。
音楽的にはメロディーに溢れた傑作ということになりましょうし、その点で全く異論はありませんが、
どうしてここまで壮大になってしまうのか、ヴェルディの個性でもあるのでしょう。


そんなときにふと思ったのは「はて原作はどんな話なのかいね?」ということ。
先にビゼーの歌劇「カルメン」がメリメの原作とは離れている点があったことから、
アレクサンドル・デュマ・フィスの原作はどんなであろうかと思い、読んでみたわけです。
(先月のMETライブの話が今になったのは原作小説を読むのに時間がかかり…)


椿姫 (光文社古典新訳文庫)/アレクサンドル デュマ・フィス


一読して受ける印象は、歌劇とはかなり違いますね。
そもそも途中の展開もなぞってはいますが異なりますし、ラストも全く違う。
アルフレード(原作ではアルマン)はヴィオレッタ(原作ではマルグリット)の

死に目にあえないのですから。

本書の解説では、オペラ化作品をこのように言っておりまして、

個人的には首肯できるところです。

要するにこのオペラでは小説が徹底的に通俗化、メロドラマ化されて、愛と死が緊密に結びつき、死のなかでこそ初めて愛が昇華され成就するといった西欧的な「愛の神話」を歌いあげるものとなっているのだ。

では、原作は?ということになりますけれど、
やはり解説の中に引用された「『椿姫』の中心的神話は〈愛〉ではなく、〈承認〉である」という
ロラン・バルトの言葉が「なるほど」と思えるものであるように思うのですね。


マルグリットはクルチザンヌ(高級娼婦)として大変に派手な生活をしており、
小説の中でその生活費は年に10万フラン(約1億円)とも言われています。
まあ、裏社交界の女王たるもの、好むと好まざるとに関わらず、

羽振りのよさを示さねばならないでしょうから。


これに対してアルマン(オペラのアルフレードはある程度の金持ちのようですが)は

年収800万円程度で、貧乏とは言えないとしても、

所得の面からはとてもマルグリットのパトロン対象たり得ない存在。
このようなアルマンになぜマルグリットが心を許すのか…。


だからこそ「純愛なのではないか」という見方もできましょうけれど、
先のバルトの言葉に従えば、マルグリットはアルマンによって「承認」されたことで

受け入れるのではないかと。


マルグリットの取り巻き連中は端から彼女をクルチザンヌとして見た上で、
金に貢いだりすることでモノにしたいと考えている御仁たちばかりなところへもってきて、
アルマンという普通の男性が何を罷り間違ったのか、普通の女性を愛するように

マルグリットに接してきた。

その不用意さをマルグリットの友人プリュダンス(原作ではかなり重要な役回り)が

こんなふうに諭す場面があります。

ねえ、あんた、マルグリットはたしかにあんたを愛しているわよ。でもね、彼女のためにも、あんたのためにも、これはあんまり深入りさせたくない関係だわね。あんたの七、八千ぐらいの収入なんかでは、とてもじゃないけどあの娘の贅沢三昧を支えられはしない。馬車代にもならないでしょうよ。だからマルグリットのことはあのとおりの、気っぷがよく才気もあるいい女だと思って、ひと月かふた月、恋人になっていればいいじゃないの。

従来からの取り巻き連中には通用する言葉でも、アルマンには通じないのですな。
クルチザンヌのマルグリットを愛しているのではなくして、

ひとりの女性として愛しているのですから。

マルグリットとしても、このアルマンの受容が

「ひとりの女性としての承認」であることに心動かされるという。


また、アルマンの父親が二人の仲を裂くところはオペラも同じですけれど、
恋人とその家族のためを思って身を引く悲恋に描かれるオペラとは異なって、
最初は「汚らわしい商売女は消えうせろ」的な対応をしていた父親が

マルグリットの人となりに接するに及び、いろいろな面から考えて

マルグリットには分不相応なアルマンとの別れを理性的に受け入れる彼女をまた、
クルチザンヌを見る色眼鏡でなしに「ひとりの女性」と見ることになっていくという。


この父親による受容もまたマルグリットにとっては「承認」であって、
かつて経験したことのない自分の認められ方におそらくは至福を感じたりもしたのではないかと

思われるわけです。


こういうふうに見てきますと、

先の解説に見た「(オペラが)徹底的に通俗化、メロドラマ化されて」いる点は
否めないように思うところですけれど、これはなにもヴェルディや

台本作者ピアーヴェのせいとばかりは言えないようで。


そもヴェルディは小説からでなく、芝居の「椿姫」を見てオペラ化を思い立ったとのこと。
で、その戯曲版はデュマ・フィス自らが手掛けたにも関わらず、すでにして小説からは離れて、
どちらかといえばオペラ版に近い展開になっていたのだそうでありますよ。
検閲に配慮する必要があったからでもあったようですね。


舞台化されて人の目に触れる可能性が高まるとして、
クルチザンヌであるマルグリットの「承認」は小説として描き出すことはできても
芝居で見せることには難しい風潮であったということになりましょうか。


とまれ、デュマ・フィスの「椿姫」。
今ではオペラの原作として知られるばかりになっているやに思いますが、
小説には小説の読みどころがある作品と今さらながらに気付かされたのでありました。


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