あ昼飯と利き酒を味わった養老酒造 のすぐ近くに、比較的敷地の広い神社がありました。
何やらそれなりに由緒がありそうなふうでしたので、立ち寄ってみたのでありますよ。


大井俣窪八幡神社神門

小振りながらもこの檜皮葺の神門からして床しさがありますけれど、神門の建立は

永正八年(1511年)とも天文十一年(1542年)とも伝わるといいますから、室町時代ですな。

どうやらこの神門を始め、境内には国の重要文化財がたくさんあるとは

境内の解説板から知ることができたのでありました。


大井俣窪八幡神社(大井俣・窪八幡と区切られるようで)というこちらのお社は、

社伝に曰く貞観元年(859年)、清和天皇の勅願によって

九州の宇佐八幡宮から勧請されたことに始まるとは、赫々たる由緒。


室町後期の神社建築を今に伝えているそうですが、

これは16世紀初頭に駿河の今川勢による侵攻で社殿が焼失した後、
甲斐の武田家が再興させたことによるようで。


大井俣窪八幡神社拝殿


神門から真っ直ぐ進んで石段を登った突き当たりが拝殿になりますが、
これまた檜皮葺でシンプルなところが古式床しさを伝えている気がしたものです。

この拝殿は、武田晴信(信玄) が信州葛尾城に拠る村上氏との戦勝を祈願して
天文二十二年(1553年)造替したとされるようですが、

特徴は間口が11間もあるという長い建物であること。
写真でも全貌は捉えにくいところではなかろうかと。


長さは11間

そして、この長い拝殿の裏側にはこれまた長い本殿があるのですなあ。
他でも見られる三間社流造が三棟連なり、間にそれぞれ一間の間隔があるのでトータル11間。
「十一間社流造」と呼ばれ、現存するものとしては日本最大の流造本殿なのだとか。


十一間社流造の本殿

連なる三棟を手前から北殿、中殿、南殿と称し、それぞれに
足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと・仲哀天皇)、誉田別尊(ほむたわけのみこと・応神天皇)、
気足長姫尊(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)を祀っているのだそうな。


見た目、拝殿よりも色鮮やかな分、新しいものかなと思ったところが、
どうやらお手入れの賜物なようで、建物自体は室町後期のものであると。
信玄は川中島合戦の戦勝祈願成就として金箔壁画を奉納したと伝わることからして、
これまた武田家の崇敬が感じられますなあ。


神社の鐘楼


ところで八幡神社というからには神社なはずですが、ここには鐘楼があるのですよね。

鐘楼までが檜皮葺とは恐れ入った統一感ですけれど、
これも神仏習合の現われということなのでしょうなあ。

大体「南無八幡大菩薩」なんつう言い方があるように
八幡様(要するに応神天皇のことですけれど)は神様でもあり仏様でもあり…?。


最近になって少しずつ日本の歴史周りをようやく気に掛けるようになってきた者には
まだまだ知らんことが山ほどありますですが、分からんなりにあちこち訪ねるごとに

何かしらを知ることで歴史に思いを馳せておるような次第でございます。


と、帰りがけにそういえばと思いましたのは、養老酒造から直接に

神門をくぐってしまいましたので、参道の始まりにある鳥居を通っておりませなんだ。


大井俣窪八幡神社の鳥居は日本最古の木造


神門からずっと先に見えている鳥居はこれも記録によれば天文九年(1540年)建立とされて、

存する木造鳥居では日本最古なのだとか。
ふらりと立ち寄ったわりには思いがけない由緒にめぐり合ったものでありますよ。


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