特段の予備知識無く映画を見てみると、思わぬめっけものに出くわすことがありますなあ。

CSの日本映画専門チャンネルで見た「いのち・ぼうにふろう」は

「なんだぁ?」という食わせ物的なタイトルに関わらず、「ほお」と思ってみていたですよ。


いのち・ぼうにふろう 東宝DVD名作セレクション/仲代達矢


簡単に言いますと、破滅型の青春を描いたともなりそうで、

そうであればタイトルも何やら似合ったように思えてきますが、

1971年公開作品ながらモノクロ映像の時代劇、しかも原作が山本周五郎となれば、

むしろ味わい深い人情劇てなふうに思う方が自然なような。

原作のタイトルは「深川安楽亭」というのですし。


江戸時代に舟運が盛んだったことは何度も触れておりますけれど、

そんな時代の中川べり。運河の入り口のところに中州のような島というか、葦原があって

そこに建てられた呑み屋の安楽亭がどうも抜け荷の中継点になっているようす。


集まっているのは無頼の徒ばかりで、

素人さんが罷り間違って入り込むと生きては帰れないとの噂がしきり。

近づくものもいないのでありました。


という、いかにも悪の巣窟的な印象ではありますけれど、

中に屯する若者たちは皆はぐれ者ながら憎めない連中ばかり。

この若者(!?)の顔ぶれがすごいですな。

佐藤慶、岸田森、草野大悟、山谷初男、近藤洋介、そして仲代達矢 なのですから。


そりゃ、抜け荷の片棒を担いでいるのは明らかに悪いことですな。

そして、取り分け気が短い定七(仲代達矢)はうっかりすればすぐさま匕首に手を掛けて…

とぶっそうこの上ない。


ですが「おかしら」と呼ばれている安楽亭の主(中村翫右衛門)は

そんな世の中からはみ出してりる若い者たちを使って悪事を働く大悪党…かもしれないながら、

むしろ居場所を与えることでより酷い犯罪をしでかすことのないように見守っているようでもある。


実際、定七の気の短さは随所に窺われて、懐に手を伸ばす場面が何度か描かれてますが、

お頭がひと声かけて我に返すことで匕首はしまわれたままということになる。


今であれば社会に適応しにくい状態を何らかの症例に当てはめて

病気でもあるのだからそれなりの対応の仕方があるものとして扱われるのではと思ったり。


それが江戸時代であったならば、

世間の目は定七のような者を「きちがいに刃物」と見ていたことでありましょう。

それこそ近づく者もいなければ、ましてお頭のように声をかけて諌めるてなこともなく、

もし安楽亭に流れ着いていなかったなら、とうに大喧嘩の果てに命を落としていたのではと。


定七自身がそういう運命をたどらずに、

またその取り巻きもとばっちりを受けることなくこられたのは
ひとえに安楽亭に身を寄せて、お頭とともにあったからと考えると、
あたかも安楽亭が何らかの「施設」といったふうにも受け止められるのですよね。


確かに抜け荷に関わるのは悪事でこれを良しとはしえないものの、
いみじくもお頭が言ったように「ここ(安楽亭)がやらなくても、他の誰かがやる」ようなことで
安楽亭を取り締まったところでもぐらたたき状態。


一方で安楽亭が無くなったとすれば、

居場所を失った無頼の者たちがもっと兇悪事をひき起こすかも。
そう考えると、安楽亭は必要悪なのでもあろうかと思えてくるのでありますよ。


とかく社会規範からはみ出す者を追った挙句に無茶を引き起こすよう仕向けてしまうますが、
居場所次第では彼等の過ごしようも違ったものになるのでと考えれば、
鬼平こと長谷川平蔵の献策によって石川島に人足寄場が作られたことなどは
同じような発想に基づくもののようでもありそうな気が。


そんなあれこれを思いつつ、迎えた大団円はあたかも「明日に向かって撃て」のラストのような。
裏がありそうと勘繰りながらも勝手出た抜け荷運びの仕事の失敗から
御用提灯が安楽亭を取り囲むことになりますけれど、定七はじめ多勢に無勢を顧みず、
討って出て行くのですな。まさしく破滅型の青春を描いた幕切れらしいところでもあろうかと。


ですが、これが一筋縄ではいかずに後味苦いものなのは、
その捕り物を差配する八丁堀同心(神山繁)が裏に回っては

廻船業者などから賄賂を収受しているわけで、本当に悪いのはいったい誰よ…

てな気もしてくることでしょうか。


しばらく前に見たTVドラマでやはり仲代達矢が出演していた「巨悪は眠らせない」を
思い出したりもするところなのでありました。


ブログランキング・にほんブログ村へ