東国三社紀行 と言いながら、これまでではその欠片も窺えない…ところではありましたですが、
ヤマサ醤油しょうゆ味わい体験館 を出発した後は銚子大橋で利根川を越え、茨城県に入りました。


およそ1時間ほどの移動で目指したのは息栖神社、

いよいよ東国三社のひとつを訪ねるのでありますよ。


息栖神社のそもそもは近在に祀られていた祠を、

大同二年(807年)現在地に遷座したとのことですので、
大層な由緒ですな。元の祠はいったいいつからあったのか…。


祀っているのは岐神、天鳥船神、住吉三神 で、

天鳥船神は「神が乗る船の名」とも言われますし、住吉三神が入っていることからも、

水上交通との関わりの強さが想像されますですね。


息栖神社 一の鳥居

実際に一の鳥居の目の前は舟だまりになっていますし、
舟だまりはすぐと常陸利根川(北浦、霞ヶ浦と利根川を結ぶ)に直結しているのですから。


一の鳥居の向こうは常陸利根川


なかなかに広い川ですけれど、上の写真では下流(銚子側)に橋が架かっているものの、
昭和48年(1973年)まではここに渡船場があり、渡し船が往来していたところでもあるそうな。

また庶民にも行楽が広がっていった江戸期には東国三社を巡る旅は人気を呼んでもいたようで、
メインルートは利根川に面した木下(きおろし・我孫子の東方)の河岸から
「木下茶舟」という乗合船でアプローチしていたのだとか。
最盛期には一日十二隻ほどの舟が出航したてなことですので、大した賑わいだったのでしょう。


ところで、一の鳥居の左右には小さな鳥居があるのですけれど、
鳥居の下は「忍潮井(おしおい)」と呼ばれる井戸だということで。
写真は舟だまり方向に向かって(神社を背にして)左側にある女瓶で、
反対側にはもそっと大きめの男瓶があって、対になっているのですな。


忍潮井の女瓶


古くは内海であったとも言われる霞ヶ浦は1960年代に至るまで汽水湖として知られていて、
今は海水流入を防ぐ水門が整備されて淡水化しているようですけれど、
要するに息栖神社のあるあたりでも塩っぽい水だったのでありましょうね。


そんな塩っぽい水域近くにあって真水の出る井戸というのは
「ありがたや、ありがたや」と信仰の対象にさえなるものであったろうと。
そういう井戸だというのですね、忍潮井は。


そうした有難い井戸が造られたのは神功皇后三年とは紀元194年、
もはや伝説とは思うものの、かほどに古くから知られた霊泉なればこそ、
「日本三霊泉」(初めて聞きました)の一つに数えられているそうな。
他の二つは伊勢の明星井、山城の直井だそうでありますよ。


息栖神社 二の鳥居


とまれ、そんなこんなの由緒に彩られた息栖神社にお参りすることに。
二の鳥居をくぐって参道を社殿へと進んでまいります。



と、「やっぱりここにも?!」という松尾芭蕉の句碑 を発見。
どこへ行っても芭蕉の句碑に出くわすなと思う今日この頃(?」)ですけれど、
先にも触れましたとおりに江戸期の行楽客に混じって文人墨客が訪ねてくることしばし、
であったそうですから、芭蕉もその一人ということになりましょう。

この里は気吹戸主の風寒し

現地の解説板では「江戸時代には主神を気吹戸主神と記しているものもあり…」とされて、
本当は気吹戸主(いぶきとぬし)を祀っているわけではなさそうなのに、

どうも既成事実化してしまっていたような(神社側では肯定も否定もしていないようす…)。


まあ、芭蕉の句もそれを踏まえて、

お祓いの神様の里では吹き抜ける寒風が身を清めるようだ…てな思いを詠んだようでありますね。


ちなみに芭蕉句碑のお隣には「力石」なるものが。
要するに力比べをするための石ということになりますけれど、
大きさと重さの関係が今ひとつピンとこない分、「おっきくないなぁ…」と思ったり。


ですが、右側の方の石であれば五十貫余り、200kgに近いと聞けば「ほお!」とも思い、
加えてこの石が笹川繁蔵(「天保水滸伝 」で有名な侠客ですな)の奉納したものと知るに及んで
「ほうほう!」と興味が高じたりするのでありました。

 


ちと参道での寄り道がありましたが、社殿へと到着。二礼二拍手一礼の作法はもとより、
「祓い給い清め給え 守り給え幸(さきわ)え給え」を三唱せよとのお達しがありましたので、
他に参拝者のいないタイミングを見計らって唱えてきた次第でありますよ。


東国三社の一社めをクリア。続いて鹿島神宮を目指したのでありました。


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