以前、新聞書評だったかで見かけていた本ですが、
ちくまプリマー新書の一冊、「植物はなぜ動かないのか」を図書館で借りて読んでみたのですね。
「なぜ動けないのか」ではなくして「なぜ動かないか」。
極めてシンプルに動く必要がないということになりましょうかね。
「動く」、「動かない」ではなしに「動ける」、「動けない」で区分けをするときに
動ける物(つまりは動物
ですな)から見て「動けないとはなんと不便な」と思ったりして、
ややもすれば上から目線を投げかけていたりはしないでしょうか。
個人的にも白状すれば「植物より動物の方が…」的な意識がまるでなかったかと言えば、
そうではないような。特段の根拠も持ち合わせていないのに。
そうしたところで出くわした本書を読んでみれば、反対に植物の側に立って考えてみますと
「なんだってあんなにひっきりなしに動いてなくてはならんとは、可愛そうなことよ…」
てなふうでもあろうかと思ったりするのでありますよ。
動物は動くことによって環境の変化をやり過ごしたり、食糧を得やすくしたりできるわけですが、
これは「できる」のではなくて、「しなくてはならない」だったのですなあ。
植物にはその必要がない。だから動かないわけです。
そうはいっても、草木がいとも簡単に枯れてしまったりするのを目の当たりにするとき、
やはり動けることが生を全うする手段なのではと考えますけれど、
反面、樹齢何百年の御神木などはそこここの神社で見かけますし、まして縄文杉においてをや。
その生を永らえるという意味において全くもって動物は敵わないのですよね。
動かない植物は動かないことを当然として進化を遂げてきた結果があり、
その一面が生の長さだったりするわけですが、動物とは進化の形が相当違うものなだけに
植物が進化してきた過程に目を向けなかったりすることがありますね。
先日、犬吠埼の宿で夕食待ちの時間にTV朝日「ごはんジャパン」なる番組を見ていたですが、
「宝石のような美しいカブ」を作る農家の話が取り上げられていました。
その農家の方がキズ一つないきれいなカブ作りにこだわっているのは
何も見目麗しいほうが商品価値が高いという以上においしいからなのだそうで。
この方のカブ畑では常に紗が掛けられているようですけれど、
葉が大きいだけに風が吹くとわずかながらもぐらぐら揺れて、
その揺れが育っている根の部分(要するに食べる部分ですな)が土とこすれて傷になるのを
防ぐためにしていることだそうなのですね。
どうやら少しでもキズがつくとカブは外敵襲来と感じ取り、アルカロイドを分泌するそうな。
これが「苦味・えぐ味の原因」(番組HP)となって動物を遠ざけるのだとか。
(つまりは外敵とは動物のことであったか…)
早い話が少しでもキズのないものの方がおいしいカブであるということなわけですが、
ここで植物の進化の話に戻りますと、動物のような目や鼻、耳、手といったものは無くとも、
それに変わる感覚器のようなものを進化させてきていて、外敵の襲来にも逃げるのでなくして
その場にいながらにして外敵を遠ざける手段を講じられるように進化したきたのでありましょう。
被子植物は虫に受粉を手伝わせる(動けるからこそ虫はこき使われる印象でしょうか)ために
虫を呼び寄せやすい匂いを発したり、見つけられやすいように鮮やかな色の花をつけるよう
自らを進化させた。
また、裸子植物は風に花粉を運ばせることから(虫に頼るより受粉の確率が低くなる分)
大量の花粉をばらまく一方で、花は目立つ必要がないので見た目に寂しいものとなっているのも
また独自の進化というべきなのですなあ。
もちろん動かない分、場所との適合性が悪いと育つことはできないですが、
相性が悪くない場所でならすくすく育つのが植物。
場所や環境から逃げられない分、それぞれへの適合性を高めるよう進化してきた植物のあり方は
忙しく動き回る動物、ひいては人間の生き方に大きな疑問を投げかけてはいませんでしょうかね…。