高崎の観音山には白衣大観音
、洞窟観音
という観音様がおわすわけですけれど、
それが故に観音山という名前なのではなくして、観音山という「ゆかりの地」なればこそ
白衣大観音も洞窟観音も造られたのではないかと思うのですなあ。
さればそもそも観音山とは何の謂いぞ?ということになりますが、
旅の終盤になってようやっと理由が分かったのでありますよ。
洞窟観音、そして徳明園&山徳記念館
をひと廻りして次に向かったのは清水寺。
ただし、「きよみずでら」ではなしに「せいすいじ」と読むのだそうですが。
それでもやはり京の清水寺と関わりがないではなく、寺伝によれば
大同三年(808年)蝦夷征伐に向かう坂上田村麻呂がこの地で武運長久を祈願するため
京都の清水寺から勧請し、開基したのがこちらの清水寺であるそうな。
だからといって清水の舞台と言われるような懸造があるのかといえばそうでなく、
その代わりといっては何ですが、観音山の斜面に設けられた参道はひたすらの石段登り。
これはなかなかに難儀です。
上に見えた門を潜ればおしまいかと言えば、そうは問屋が卸さない。
まだまだ続きます。
左へ折れて見えなくなった先にもまだまだ石段は続きます。
心の準備が無いと軽くめまいが起きそうな気がしますですよ。
ただ季節によっては石段の両側が紫陽花に埋め尽くされる花の寺としても知られているそうな。
そういう時期なら些か気も紛れようものですが、計518段の石段を上り詰めますと
ようやくにして本堂にたどり着くのでありました。
で、本堂に到達する直前にくぐった門を振り返りますと、
まあ、これが今日の清水寺を模したのかなとも思える舞台状になってまして、
方角からすれば高崎市街を一望…のはずが、繁った木々に視界を遮られて遠望はきかず…。
とまれ、もう目の前が本堂の観音堂でご本尊は千手観音像。
ここでようやっと観音山の由来はこの清水観音堂にあったということが分かったのですね。
何せ開基が9世紀初頭となれば、観音様のある山、観音山の名前が定着する時間はたっぷりです。
ですがそうした由緒のわりには、またたんと石段を登ったとはいっても里山であるわりには
何ともひっそり閑として、あたかも深山幽谷に分け入ったかのような気がしてくるのは、
パワースポットだったりするのですかね。
と、本堂の右手には田村堂という小さめのお堂が。予想通りに田村麻呂由来の名前ですけれど、
高崎地元的には下仁田戦争の際に戦死した高崎藩士を弔うためのお堂でもあるようです。
ところで、日本史に疎い者としては下仁田戦争とは聞いたことがなかったですが、
幕末に尊皇攘夷を掲げて筑波山で挙兵した天狗党との争乱の一つであったような。
幕府軍に叩かれた後、京にいる徳川慶喜
に直言すべく西上の途についた天狗党残党に対して
幕府は通り道になる諸藩に追討令を発するも、道々の小藩は事なかれで通過を許してしまいますが、
高崎藩は下仁田でこれを迎え撃ち、激戦を展開するも敗れてしまった…
その戦没者慰霊のお堂であったわけですね、田村堂は。
…と、ここまでの話でこの清水寺参詣にあたっては
長い石段をえっちらおっちら登ったかのように書いていましたけれど、
観音山山中の移動の都合で実は先の石段を下山路にだけ使ったのでありました(笑)。
で、最終的にたどり着いた登り口で目を留めましたのは松尾芭蕉
の句碑。
本当にどこにでも登場しますなあ、芭蕉は。
辛うじて「甍」という文字らしきものが見えようかと思いますが、
芭蕉が詠んだ句は「観音の甍見やりつはなの雲」というもの。
観音様、そして紫陽花かとも思う花の雲…いかにもここで詠んだかのようですけれど、
実際には深川の芭蕉庵にあって病に臥せっていたときのものであると、
宝井其角は伝えているそうな。
ですので、ここでの観音様は浅草のことだそうで。
ちと調べて後悔したような…(笑)。








