かつて知り合いにF1好きがいたことから、
話を聞かされるこちらも「どれどれ」とレースを見てみることがありました。

見ているとドライバーの名前も知るようになって興味が湧き、
レースのたびにTVで見るようになったりもしたですが、結局はいっときのことに。


なんとなれば夜中の中継なんぞも多くあったりして、
夜更かしできない、というより夜更かしする気のない者には到底追いかけられないわけで。


見ていた当時、活躍していたF1ドライバーを思い起こしてみれば、
マリオ・アンドレッティ、ジル・ヴィルヌーヴ、ジョディ・シェクター、
アラン・ジョーンズ、ネルソン・ピケといったあたりだったような。
プロストが出てきたなぁ…という印象まではありますけれど、
その後の超有名ドライバー、アイルトン・セナやミハエル・シューマッハなどは
もはやレースでは見たことないですなぁ。


逆に遡った有名どころにはニキ・ラウダになりますけれど、
ラウダ旋風は見始めた頃のほんの直前だったのだな…と今頃になって知ったのですね。
ドイツ・グランプリで車が大破炎上、大やけどを負ったラウダが50日足らずで戦線復帰し、
最終の日本グランプリまでジェームズ・ハントと総合優勝争いを繰り広げたのは
1976年のシーズンであったのか…と。


またまた藪から棒の話になってますけれど、ニキ・ラウダとジェームズ・ハント、
この二人を扱った映画「ラッシュ/プライドと友情」を見たからなのでありまして。


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映画の中でラウダはこんなことを言います。
レースごとにドライバーの死亡事故の発生率は2割。
その2割は引き受けるが、それ以上はごめんこうむると。


2割というのをどの程度のものと受け止めていいのかは分かりませんけれど、
日常的な行動の中では自ら気をつけるにせよ、予め他方面からの対策が施されているにせよ、
死亡事故発生率で言えば限りなく小さくなくように考えられているのではないかと。
そうでなければ安心して暮らせないでしょうし。


それに比べて、F1レースの場合は2割という数字が大きいのか小さいのかはともかく、
確率的にも死亡事故が起こっても当然という中で行われていて、
かつ出場するドライバーたちもそういうものだと思っているのでしょうなあ。


普通の車はある程度のことなら車体が守ってくれるということもありますが、
F1マシンは速く走ることこそが目的ですから、ドライバーの防護には目をつぶり、
それ以上に可能な限り車体を軽くせんがために、ぺらぺらとも言っていい車でありましょう。


そんな車に乗り込み、時速二百何十キロで走るというのは
自殺行為でもあろうかと言えないこともない。
そんなことからF1ドライバーになるような人たちは刹那に生きる破滅型であろうかと
思ったりするわけで、この映画ではラウダとの対照からもハントはそんなふうに見えますね。


一方で、2割を上回る危険(例えば大雨)が存在する中では
レースを行うべきでないと主張したラウダは冷静とも言えますけれど、
冷静に生きることを考えたならば、おそらくF1ドライバーになるという選択肢は
出てこないようにも思いますので、一概には言えない。


実際、先の発言が他のドライバーたちには受け入れられずに決行されたドイツ・グランプリに、
ラウダは出場するという選択をし、結果大やけどを負うことになったわけですし。


ともすると総合ポイントでトップを走るラウダがここで「出ない」という決断は
F1ドライバーたる心理からすればできないことでもあろうかと思いますけれど、
最終の日本グランプリではやはりコンディションが悪い中で、
リスク回避の点から途中リタイアを選ぶのですな。


何が違うといって、家庭のことを考えるという点でしょうか。
一度、大怪我してますしね。2割までのリスクを引き受ける用意はあっても、
それ以上のときに一朝事があったら、我が身がどうのだけでなくって、
妻を悲しませることになると思い至るという。
この点もハントとは対照的に描かれてますですね。


とは言いながら、ラウダとハントは性格的に正反対にも見え、
あたかも犬猿の仲のようでありながら、実は…というのが
タイトルに添えられた「プライドと友情」という言葉でしょうか。

ある意味では似た者同士でもあるのですけれど。


ところで、死亡事故発生率2割とはいえ(あるいは2割という)
厳然たるリスクがあるにも関わらず、何故「より速く」を目指すのか。
例えにもなりませんが、自転車で街なかを走っていて、
少し前を走る自転車があると何となく抜きたくなることもあるような(笑)。
これまた人の本能の発露でもあるのやもしれませんですなあ。


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