「マネー・ショート 華麗なる大逆転」という映画を見たのですが、
金融関係に疎いものには大層付いていくのに難しいお話ではありますなあ。
簡単に言ってしまいますと、サブプライム・ローンの破綻を予測した者たちが
それを当て込んで新たな金融商品を開発、これによって実際の破綻にあたり大儲けするという内容。
素人には訳の分からないからくりでもって儲かるということは
そのからくりを見つけたもの勝ちということになるのでしょうし、
見つけられるだけの才覚があるのだから、それで儲けて何が悪いてなことにもなるんでしょうかね。
見ていてすぐに思い至ったのは、サブプライム・ローンに頼っている人たちがたくさんいて
それが破綻してしまうと家を失うというか、人生を失ってしまうような人たちがいる中で、
その破綻を予期したときに出る行動というのが、儲けの手口ということであるか…ということ。
アメリカは「自由の国」と言われて、自由が尊重されるわけですけれど、
その「自由」というのは「勝手」とも置き換えられるようになってきているようで、
金持ちになる自由があって、そうなるのも勝手なら、貧乏になるのも自由で
勝手に貧乏になっているだけ…てなことになりましょうか。
「自由」というのは、例えば「束縛」といったことに対置されるとき、
人にとっては遥かに前者の方が「よいもの」でありましょう。
ですが、「自由」を良しとするのが極端に先鋭化すると
「勝ち組」があれば当然に存在することになるであろう「負け組」も
負け組になる自由てなことを片付けられてしまうのかもしれませんですね。
(ちなみにこの「勝ち組」「負け組」という言葉は全くもって好きになれませんが…)
たまたまにもせよ、先日見ていたNHK「知恵泉」で取り上げられていた渋沢栄一は、
商売を卑賤と考える(士農工商と一番下にくるくらいですから)江戸時代のようでは困るが、
かといって商売第一として儲け以外に考えが及ばなることもまた大いに戒めておりましですね。
「道徳経済合一論」というものだそうですが、それを示した著書「論語と算盤」には
こんなふうに書かれてあるそうでありますよ。
事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。
このことは渋沢が明治という時代を生きた人であることを忘れてはいけないでしょうから、
国家社会への思いを今と同じ土俵に持ち込むのは適切ではないと思うものの、それでも
他の誰かのことなどお構いなく、自分が利することを良しとする考えとは全く異なることは分かります。
先の話でもってアメリカ的なるものを全否定するつもりはありませんが、
とかく何ごとにつけじわじわとアメリカナイズし続けているやに思われるところもあり、
この「マネー・ショート」なる映画に「華麗なる大逆転」といった言葉を添えてしまうあたり、
何と思慮のないというか何というか…と思ったものでありますよ。