このほどの旅にあたって、ちょいと予習本にしたのがこの一冊。

「広重・英泉の木曽街道六拾九次旅景色」というものでありました。


天保国絵図で辿る広重・英泉の木曽街道六拾九次旅景色 (古地図ライブラリー)/堀 晃明


歌川広重 による「東海道五十三次」(保永堂版)が天保四年(1833年)に出され始めると、

名所案内的にも人気を博したのでありましょう、類似企画が次々に…と考えるのは今も昔も。


そこで、東海道と並ぶ主要街道であった中山道すなわち木曽街道の六十九の、

宿場やそこに近い名所を描き出す連作版画の企画が持ち上がるのですな。

絵師は当然に広重…と思いきや、出発点たる日本橋を描いたのは渓斎英泉。
その後、武蔵国を北上していく間はすべて英泉が手掛けているという。


それが上野国に入るや広重と英泉が入れ替わり立ち替わりの状態に。

信濃から先、美濃、近江と続く中ではだんだんと広重の比重が高くなっていきまして、

最終全71点のうち、英泉が24点、広重が47点を担当してシリーズ完結てな具合。


ちなみに「東海道五十三次」は53の宿場に始点・日本橋と終点の京を加えて

全55点の作品となってますですが、こちらは六十九次で71点となれば、

69の宿場にやはり日本橋と京都が加わってと思うとながら、さにあらず。


すべての宿場プラス日本橋で70点、これに京都は加わらずに

何故か中津川宿が2点(いずれも絵師は広重)あるため、全部で71点。


二人の絵師が起用されてその配分もばらばらなこと、

そして版元も保永堂から錦樹堂へと移り変わっていること、

さらに中津川宿がだぶっていることなど不思議な点含みのシリーズであるとは、

有名な東海道よりもちと「そそられる」要素がありますなあ。


とそれはともかく、中山道のルートとはこうだったのかぁとは今更ながらに。

関ヶ原の戦いに臨んで、徳川秀忠率いる一隊は信州上田で真田の軍勢に足止めを食らい、

肝心の戦いに遅参したことが有名であるだけに、中山道は上田を通るものとばかり考えていて。


実際には軽井沢を過ぎると佐久から八ヶ岳北側の和田峠を越えて

諏訪湖に降りてきたようで(ドラマ「一路」でも逆コースで臨んだ和田峠に難儀してましたっけ)。


その後は塩尻宿を経て、3つ目の宿場である贄川宿の手前で「是より南、木曽路」と碑が示す。

贄川も現在は塩尻市ですので、それ以前の中山道はここでは端折って特急あずさですいと塩尻へ。

そこが実質的に旅の出発点ということになったのでありました。


渓斎英泉「木曽街道 塩尻嶺 諏訪ノ湖眺望」

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