野田という町は相当にキッコーマン
の企業城下町というふうでありますね。
どこを歩いても、キッコーマン関連の建物に行き当たるといいますか。
ですが、大正6年(1917年)に野田の醤油醸造家が大同合併して
今日のキッコーマンの元を作った際、これに参加しなかった反骨?の醸造家もいたのだそうな。
天保元年(1830年)創業、現在キノエネ醤油となっている醸造所が独立独歩の道を選んだと。
工場は市街の中心部を貫く流山街道から脇道をちょいと入ったところにありますけれど、
大きなキッコーマンの工場とは打って変わって、昔ながらの醸造所の雰囲気がこの黒板塀から漂っておりますね。
ということで、流山街道沿いをぶらっと歩いてみるわけですが、
やはり醤油産業と関わる建物などが目に付く存在として姿を現すのですよ。
この石造りのどっしりした建物は、醤油醸造業者の、醤油醸造業者による、
醤油醸造業者のための銀行の社屋として大正15年(1926年)に建てられたもので、
経済産業省認定の近代化産業遺産となっているのだそうです。
が、何よりもユニークなのはその銀行名でありまして、称して曰く「野田商誘銀行」とは。
醤油の語呂合わせとすぐ知れるネーミングながら、度々の金融恐慌を乗り切る体力があったようで
(勝沼の田中銀行
は昭和恐慌で倒産してしまったりしてますが)、
戦時中の政策で千葉銀行に統合されるまで独自経営が続いたそうでありますよ。
旧野田商誘銀行を後に少々進んで行きますと、
今度もまた独特の風貌を持つ大きな建築物が見えてきます。
「興風会館」と呼ばれるこの建物は、
明治大学
の旧校舎や旧細川公爵邸を設計した建築家・大森茂の作品だとか。
これにしても野田市郷土博物館にしても、当時の知られた建築家に設計を頼んでいることもまた
醤油による財の賜物なのでしょうなあ。
醸造家たちによる地域への文化的還元でもありましょうか、
この建物では講演会、展覧会、映画会などが開催されてきたということです。
そうした用途であるだけに文化の香りを漂わせるような建物が望まれたのか、
「ロマネスク
を加味した近世復興式」という建築はなかなかに個性を放っておりますね。
と、流山街道が野田市駅前から続く道と出くわす交差点の
ちょいと手前に小さなお社が見えました。
どうやら須賀神社であるとのことですが、不心得者丸出しで言ってしまいますと、
どうも新しく見える建物にはありがたみが感じられないと言いますか。
かといって、伊勢神宮の式年遷宮や春日大社の式年造替には
いささかなりとも興味を示すのですから誠に勝手なものでありまして。
ですが、こちらの須賀神社が新しく見えるのは、実は東日本大震災で甚大な被害を受け、
3年前に立て替えられた…てなことを知ってみれば、つい頭を下げてしまうといいますか…。
ところで、この須賀神社には地元野田の石工たち三人が文政六年(1823年)に彫り上げた
大きな猿田彦像があるということで覗いてみたわけです。
絵画によく見られるいかめしい姿よりはやさしい性格と見受けられますけれど、
衣の風に靡くさまなど颯爽とした感もあり。
地元の石工の作と侮るなかれでありますなあ。
また、台座部分の中央に穿たれた穴の中には「猿」繋がりでしょうか、
「三猿」が浮き彫りになっておりましたですよ。
と、その猿田彦像の左手、ちょうど神社のお社の真裏の部分に
このような盛り上がった場所を発見。「これは!富士塚であろうに」と。
明治17年(1884年)とありますから、さほどに古いというわけではないようですが、
それにしても表通り沿いに神社の由来と猿田彦像の説明書きは建てられていたものの、
富士塚には一切触れられておらず…というのは何とも寂しい限りと言いますか。
(わりと富士塚
は好物にしておりまして)
とまれ、野田の街を歩き回ってようやっと、
醤油から離れた話に到達することができたのでありました(笑)。