先に訪ねたキッコーマン は日本でトップの醤油メーカー、
つうことは世界一でもあろうかと思いますけれど、それが何故野田にあるのか。
こうしたあたりを知ることが出来ようかと出向いたみたのが野田市郷土博物館でありました。


野田市郷土博物館正門


なにやら妙に立派な門を潜りますと、左にある建物が博物館でして、
見た目は(こう言っては何ですが)単なる箱物の印象ながら、
日本武道館を設計した建築家・山田守の作品で外観は校倉造をイメージしておるそうな。
あんまりぴんとこないですけれど…。


野田市郷土博物館


中に入りますと直方体の内部には柱が見当たらず、広く空間を外壁が支えている感じ。
2階に相当する部分も吹き抜けの内側に面する回廊のように作られていて、
開放感はあるも展示スペースはかなり少ないのではと思われます。


そこへ持ってきて、「野田に生きた人々 その生活と文化2016」なる企画展が
場所を占めてしまっていたものですから、醤油関連の展示は少なく、
むしろ関宿城博物館 の方が知りたいことにマッチする内容があったように思われました。


ですが、ともかくもこれまでに知ったところも合わせて整理してみますと、
まず日本の醤油発祥の地は和歌山であって、そこから醤油造りは関東へ伝わってきますが、
その場所は銚子であったそうな。


銚子には今でもヤマサ、ヒゲタといった醤油メーカーがありますが、
江戸への物流を考えると、もそっと近いところで醸造業を考える人があっても

決して不思議なことではありませんですね。


おそらく和歌山から銚子への醤油伝播は舟運との関係があったと思われますが、
海でも川でも舟運が盛んであった時代。
銚子からの物資を運ぶには房総半島を迂回しては時間が掛かりすぎますから、
利根川を遡っていって、次に江戸川を下り、江戸に荷を運びこむてなルートがあったのですね。


もの知りしょうゆ館リーフレットより


利根川と江戸川に挟まれた野田は利根川伝いに醤油造りが伝わる一方で、
舟運物流の要所として原料になるものも得やすかったでしょうから

醸造場所に打ってつけと思われたのかもしれませんですね。


最初は1661年(寛文元年)に、そしてその後には個人事業主の醸造所がいくつもできていって、
江戸の醤油消費を賄うことになりましたですが、やがて時を経た大正になって

個人醸造所が大同合併、野田醤油という大きな醸造会社が作られた。

これがキッコーマン(亀甲萬)の元であるそうな。


ですが、全国的に見れば思った以上に多いのが醤油醸造業者であって、実に競争が激しい。
そんな中、いち早く外国展開を図ったのがキッコーマンであったと。


後々の企業史はともかくも、

そんなような歴史を紐解く話が仕入れられるかと出かけた郷土博物館でしたが、
ちと期待が先行しすぎたようでありました…。


ただ、同じ敷地にあった野田市市民会館の方は

これはこれでひとつの見ものでありましたですね。
何しろごく普通に市民会館と聞いて想像する建物とは全く異なって、

こんな玄関なのですから。


野田市市民会館?!


実はこの市民会館、合併して野田醤油会社を作るに至った醸造家の一人、

茂木佐平治の邸宅であったそうな。
ちなみに「亀甲萬」の印は茂木佐平治家が使用していたそうですから、

発言権大の人だったのでしょう。


邸内にいくつもある和室は市民サークルの会合などに利用されるようで、
国の登録記念物となっている庭園を望んでの会合とは乙なものではありませんか。


旧茂木佐平治邸庭園


思惑違いはありましたけれど、博物館を訪ねたことで市民会館を覗くことになり、
かつて醤油醸造で財を成した結果に触れるところとなったのでありましたよ。


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