ヴィクトル・ユーゴーの小説「レ・ミゼラブル」の主人公ジャン・バルジャンは
パンをひとつ盗んだ咎により変転の人生を送ることになりますけれど、
そもそもの動機は貧困の故というもの。


そこには同情の余地はあるものの(その後に待ち受ける過酷を思えばなおのこと)、
だからといって社会規範をないがしろにしてよいということにはなりませんですね。

ですが「同情の余地」を自らの物差しの方に引き寄せて
「自分は悪いことはしてない」と考えてしまう思考回路が現にあるのですなあ。


本を盗むといえばイメージするのは万引きかとも思うところながら、
稀覯本という高額商品ばかりを狙って詐欺的手口で手に入れる本泥棒を取材した
アメリカのノンフィクション「本を愛しすぎた男」を読んでみますと、
そんな人物の姿が浮かび上がるのでありますよ。


本を愛しすぎた男: 本泥棒と古書店探偵と愛書狂/アリソン・フーヴァー・バートレット


高額な稀覯本狙いとなれば「転売目的か?」とも考えるわけですが、
本書のライターが接触した本泥棒ジョン・ギルキーには

転売して現金を得るといった発想はないのでして、
もっぱら自分のコレクションを作り上げるためであるという。


つうことは、ジャン・バルジャンのようにそのパンが命を救うてな困窮状態とは違う…
と思うのが自然な受け止め方かと思うところながら、

どうやらギルキーには同じような状況に思えるらしい。


つまり、自分にとって稀覯本は、それがなければ生きていけないほどの必需品でありながら、
それが自分の手に入れられない世の中は不公平であり、

自分がやっていることは不公平の是正に過ぎない。
こんなふうに、本気で思い込んでいるふしがあるのでありますよ。


この論法で行ってしまうと、

何もかもが正当化(とは言わずとも同情の余地ありと)されてしまうような。
自分には遊ぶ金がない。世の中には遊んでいる人がたくさんいるのに、それでは不公平である。
何かしらの方法で自分に遊ぶ金が入るように手立てを講じるのは
不公平の是正に過ぎない…といったふうに。


しかしまあ、ギルキーは何だって稀覯本を狙うのか。
ギルキーにとってなぜ稀覯本を手に入れたくて仕方がないのか。
この点は稀覯本に限らず、いわゆる「コレクション」というものの考え方にもよるのでしょうけれど、
集めたものをひとりで愛でているうちはいいですが、やはり自分がたいへんな時間、労力、

そして金銭を注ぎ込んで集めたコレクションを誰かに見てもらい、感心してもらいたいてな

側面もありましょうね(誰もがそうではないでしょうけれど)。


ギルキーはまさにその手合いであって、

主として「20世紀の小説ベスト100」なるリストに挙がった作品の、
初版本(著者サイン入り尚可)をコレクション(?)のメイン・ターゲットとしているのでありますよ。


なぜ「20世紀の小説ベスト100」なのか?となれば、
誰かに見せびらかしたときに有名作家の有名作品が並んでいると
「すごいですね!」となりやすい、
つまりすごいコレクションを持っていることでギルキー自身が凄い人物になった気になれるという。


「人は見かけ」の信奉者かもしれませんし、

アメリカでは成功者の姿としてそういうのがあるのかも。
それにしても「俗物」っぽい理由ではないですかねえ。


そんな人物を相手にして、

あるときは服役中に刑務所を訪ね、仮釈放中(またすぐに逆戻りするんですが)には
街なかのコーヒーショップで待ち合わせて、2年に及ぶ取材を重ねるのですけれど、
怖いなあと思いましたのは「ストックホルム症候群」ではありませんが、

それにも類似した共感というのか、理解というのかが出てくるようなところでありますね。


本書の中では書き手がそれを振り切っていくようす(自覚的であるは不明ながら)も

書かれているやに思いますが、本泥棒と相対する古書店主たちにも取材を重ねていったことが、

バランスをとれることになったのかも。

本泥棒と古書店主、違いは紙一重とまでは言わないものの、

「本を愛しすぎている」一点ではあまり違わないように思える部分もありますし。


どうも紹介のまとまりが悪くなってますが(実は、本書自体の構成もどうよ?的なような…)、
「人」にはいろんな側面があることをまたまた考えることになったとは思うのでありますよ。


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