長いこと「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代
」という長編ドイツ文学に取り組んでおりましたが、
読了したことでひと息つこうと、日本の文学を読もうと思ったのでありまして。
手に取ったのは、長野まゆみ「冥途あり」という一冊。
しばらく前の新聞書評だったかで取り上げられていたのが記憶に残っていたものですから。
されど紹介されていた内容がどんなだったかを覚えておらず、およそ予備知識無しの状態。
収録された中編2編がいずれも「群像」に掲載されたものということで、
読み始めるのにいささか敷居の高さを感じてしまいましたですよ。
要するに純文学であろうと。
しかしながら読み始めてみれば、
基本的にはとっつきの悪さは微塵も無く、実にスルスルと進むのですなあ。
ただ、むしろこれは読みにくいのでは?と思う方もおいででしょうね。
何しろ「事件」らしきものは全く起こりませんから、
その平板さに降参!という方がおられるかもと思うわけでありますよ。
収録作2編のタイトルはそれぞれ「冥途あり」と「まるせい湯」というもの。
いずれも父親の死と葬儀に絡んだ現在の話と、
家族が集まれば当然に湧き起こる過去のそこはかとない思い出話が綴られて、
前者は「まいどあり」を「冥途あり」(葬儀にまつわるシチュエーションですから)に聞こえるような
言い方をしたところから取られるも、タイトルに大きな意味を隠しているとかいうことはないですし、
後者もフランス・マルセイユとの語呂と思しき銭湯の名前が家族の記憶に残っているだけといえばだけ。
それだったら「それい湯」でも「みるふぃい湯」でも何でもいいのではないか…
てなことが綴られたりしていますけれど、事件は起こらず、
こんなどうでもいいこと書かれてもあくびが出るだけと、
昨今のドラマティックな物語ばやりの中では受け止められるんだろうなあと思ったり。
で、個人的な印象はどうであるかと言いますれば、「面白いではないか」なのですね。
どうやら作中の登場人物は作者自身も含めたその家族と思われ、
もちろんそのまんまではないにしても、モデルがあって多分にその雰囲気を宿しているであろう
人物ばかり。
となれば、語られる思い出話も手心を加えているにしても、
作者の周囲で過去にあったことをベースにしているのではないかと思えてくる。
ですから、当然に思い浮かぶのは「私小説」でもあろうかということですね。
そうなると、どこの家族、一族にもいっぷう変わった叔父さんがひとりはいて…みたいなことは
よく言われますけれど、そうした際立ちキャラを配して、自分史、家族史を振り返ってみれば、
誰にでも書けそうな気にさせる部分もあるわけでして。
さりながら、そこはそううまく問屋が卸さないこともまた言わでもがな。
やはり作家の腕に掛かっているわけでありますよ。
たくさんの人がいて、それぞれに人生があり、そのどれもが同じでない。
とすれば、当然にそれだけの「物語」があるわけながら、それを綴り起こしたときに
読み手である赤の他人に「そうだよなあ」「あるよねえ」と思わせたりできるかどうか、
またそれを底支えするように書き込まれている情景描写や風俗描写の存在。
特に後者はできそうでできないものですから。
先に「ドラマティックな物語ばやりの中では…」「あくびが出るだけ」かもと書きましたですが、
一見したところでは窺い知れない、市井の人たちの生きていくさまに実はあるドラマ性を
しみじみ思うことになる作品であったように思われたのでありました。
話が回顧的なので若い人にはぴんと気にくいところかと思いますけれど。
