知り合いがヴァイオリンを弾いているアマチュア・オーケストラの演奏会に行ってきたのですね。
舞台の上では当人が「誰か来とるかな?」的に客席の方をきょろきょろするさまが
客席側から見え見えなんですけど…てなふうに、聴きに行くのをひどく喜んでもらえるもので。
演奏の方は…と、プロ・オケに比べてどうのと言うのは詮無い話でありまして、
ただアマチュアとしては上手い方なのだろうなあとは思うのですよね。
響きに厚みがありますしね。
以前、縁もゆかりもない市民オケの類いをあちこち聴きに行っていたことがあり、
中には「これは…」といううす~い音を聴くことになったこともありましたですが、
考えてみれば、そうした演奏会というのは聴衆に聴いてもらうためのものである以前に
演奏する側が自ら奏でることを楽しむためにあるのだろうなあと思ったりするわけで。
もちろんそれが悪いわけでもなんでもなくって、そこからさらに考えてみれば
音楽の楽しみとは?みたいなことになってくるような気がしてきますですね。
例えば絵画というプロフェッショナルな作り手の作品に対して、
鑑賞者は直にその作品そのものにアクセスして、いろいろな思いを巡らすことになりますね。
小説もまたしかり。
これに対して音楽はと言えば、まずプロフェッショナルな作り手である作曲家が作り出すのは
ありていにいってスコア、譜面であるわけですね。
ですから、これを先程の絵画や小説になぞらえてみると、
直に作品そのものにアクセスしようとすると、スコアを読むといいますか、
そうした方法にもなろうかと。
楽器の演奏が出来る人なら、実際に自らが音にしてみるということはできますが
楽器の指定がいろいろある中で全ての楽器を演奏できる人というのもそうはいませんでしょうし、
また独奏曲ばかりでないとすると、音を出すと言ってもひとりではいかんともしがたいような。
そこで登場するのが、プロフェッショナルな演奏家でありますね。
作曲家が作った作品を広く世に送り届ける第二段階のクリエーターとして。
これによって、作曲家が譜面にしただけでは知覚しにくい音楽が像を結ぶようになるというか。
ただ、演奏家もプロであり、クリエーター精神を持つとすれば、
そこには作曲家の意図とは別の解釈が加わるのも止むを得ざるところかと。
となると、絵画や小説が作者と鑑賞者をつないでいるほどの直接性を、
音楽には求めにくいことになってしまうのではないかと。
これが音楽だけの特殊性かといえば、戯曲と演劇の関係も類似してますね。
一般に戯曲は音楽のスコアよりも「読む」ことは容易で、
読むことによって作品に接することは可能ながら、やはり本来的には演じられてこそ。
それこそ自分で演じてもいいわけですが、ひとり芝居も少なかろうと思いますし、
全てのキャラクターを演じ分けるというのはさまざまな楽器を弾き分けるようなところでも
ありましょうから、やはりそこにはプロの演じ手を介してというになってくる。
ですが、やはり音楽同様にプレイする楽しみというのはありますから、
アマチュア劇団といったものはたくさんあるというのは市民オケがたくさんあるのと似てますね。
絵画や小説と比較して、作者とのつながりがダイレクトでないことを言いますと、
さも音楽とか戯曲とかが作品に関わる直接性が薄くなると、いささか否定的に聞こえるやもですが、
音楽や戯曲には自らが演じ手として楽しむ方法もあれば、
誰かしらに演じられた形を見聞きして楽しむ方法もあるのだと考えたらよいのかもしれませんですね。
…とまあ、知り合い含むオーケストラが奏でる「運命」に包まれながら、
ぼんやりそんなことに思いを巡らしたのでありました。
