伊豆の長八こと入江長八を知ったのは「日曜美術館」であったと思います。
ご存知の方もおいででしょうけれど、入江長八は左官職人であって、
本来的に芸術家と言われるふうな人ではないわけですね。
さりながら、その漆喰を塗りこめる技術の高さ、確かさが
元々は職人の余技であったろう「鏝絵(こてえ)」をもっぱら鑑賞するレベルに持っていった…
これが長八の凄いところであり、かつ孤高なところなのだろうと。
興味を抱いた挙句に長八の郷里である伊豆松崎を訪ね、
長八記念館やら伊豆の長八美術館などを見て廻ったのは2011年のことでありました。
と、ここでいわゆる芸術家の類いと肩を並べるような扱われ方で
「生誕200年」を銘打った展覧会が開催されたとなると、
入江長八(1815~1889)の知名度はぐんと増すことになるのではないでしょうか。
東京展は何とも地味に吉祥寺美術館で9月5日から開催中。
近いこともあって、珍しく早々と覗いてきたのでありますよ。
長八作品の芸術性といいますか、その抜きん出た力量のほどは
彫刻家の高村光雲も認めるところですけれど、
1877年(明治10年)に上野公園で開催された内国勧業博覧会に7点ほど出展され、
内務卿(当時は大久保利通)から褒状を受けるものであったそうな。
その褒状の文面が面白いので、ちと引いておこうと思います。
漆喰細工 鏝ヲ用ヒテ各種ノ泥炭ヲと塗抹シ 水彩ノ設色ヲ描写ス 衣紋骨格毛筆ヲ用ユルニ勝レリ
但 浮起ノ法 歐洲ニ仿フ有ラハ 更ニ佳妙ニ至ルヘシ
鏝を使っているのに、筆を使って描くのに勝っていると。
面白いのは但し書きで、「浮起の法」というのは立体感なのか、はたまた遠近法でしょうか、
そうしたあたりを欧州に倣うようにすればさらに良くなる…とは、
いかにも鹿鳴館外交の明治らしいところでもあろうかと思えなくもない。
ただ長八は(自ら余技に留まらないことを自覚していたのでしょう)
早くも20歳頃に江戸へ出た際には谷文晁の弟子に絵の手ほどきを受けていて、
日本画の素養が全く無いではない。
ざっくり言ってしまうと、この頃の明治政府
は
西洋崇拝の一環として洋画志向だったのですかね、もしかして。
岡倉天心やフェノロサによって日本美術への(かなり徹底的な?)回帰が行われるのは
その後ほどなくではないかと思いますけれど。
まあ、長八はそうした画壇とは関わり無く、
自身では精緻を極めた作品を残したいとは思ったでしょうが、
職人余技としての遊び心も失わず、作りたいように造っていたのでしょうね。
例えば「臼に鶏」(1879年頃)という鏝絵作品では、
絵の周囲をあたかも竹でもって額装したように見えるものとなっているものの、
額かと見せかけた竹までも実は漆喰で作っていたりしますしね。
ネーデルラントのだまし絵かくやではありませんか。
ところで、長八作品はもっぱら「鏝絵」と呼ばれていますけれど、
いわゆる絵画の範疇に収まるものではなく、塑像であったり、
はたまた本業の延長線上ともいうべき建築装飾にもその技が活かされておりますね。
そして今回の展示で最も「お!」と思った作品は「素盞嗚尊図」だったのでして、
絹本着色の掛軸、つまり鏝絵ではない本来の絵画作品なのでありますよ。
縦長画面の下部に恐れおののくクシナダヒメがおり、
その上方ではヤマタノオロチに俄然立ち向かうスサノオの姿。
伝統的な姿というよりは、その後の漫画のひと幕を思うような新しさ、ダイナミックさが感じられて
展示解説に「暁斎の画風に通じるところがある」とされたのも分かるような気が。
もちろん鏝絵の技術は長八の独擅場だったかもしれませんけれど、
もしかしてストレートに絵の世界に入り込んでいたとしても
たくさんの面白い作品を残してくれたのかもしれん…と思ったり。
逆に鏝絵作者として孤高の存在だったからこそ、
あちらこちらからいろいろなものを頼まれて作品が残されることに。
今後も思わぬところで長八作品の不意打ちをくらうことがあるかもしれませんですね。
それはそれでうれしい驚きになることでありましょう。
