大善寺から勝沼の町を望む


まあ、特段いい景色というわけではありませんが、
石段を登って高台にある大善寺 から見晴らす勝沼の町の眺めでして、
左手にカーブしながら大きな橋を渡っていくのが、今の国道20号。


橋の手前から右手方向に進んでいくと勝沼宿に達しますので、
そちらの道が旧街道ということになりましょうかね。


勝沼の町は甲州市民バスというのが走っているものの、極めて本数が少なく、
自転車で歩くにはアップダウンがありすぎのせいか、レンタサイクルもない。
ひたすらに歩いて廻るところなのでありますよ。


取り敢えず引き続きぶどう畑の中を歩いて勝沼宿を目指しますが、
その途中で古びた石碑に行き当たるのですね。


徳本念仏塔


勝沼の今に大きく関わっているエピソード絡みですので、
解説板の記載を引用しておくとしましょう。

江戸時代初期、上岩崎を訪れた甲斐の徳本がこの地で栽培されている甲州ぶどうを見て、新梢が太く、樹勢が旺盛で、蔓の伸長しがちなことから、株栽培に代わり竹で棚を作り栽培する方法を教えてくれたといい、これがブドウの棚作りの始まりであるという。
記録の上では上岩崎村の天和元年(1681年)文書に葡萄棚の記述がみられ、江戸初期にはブドウの棚作りが盛んに行われていたことが確認できる。

大善寺伝説によれば、勝沼のぶどう栽培は奈良時代に行基が広めたことになりますけれど、
江戸時代に入ってなお、そのぶどう栽培というのは地べたに
ぶどうの蔓が這っているようなものだったのでしょうか。


そこへ「甲斐の徳本」なる御仁が現れ出で、棚栽培にするとよいと教えてくれたというのですね。
今やぶどう栽培といえば、当たり前のように棚仕立てを思い浮かべるわけでして、
ここに至るまで周りのぶどう畑は皆、竹を使ってはいないものの棚仕立てになっていました。


勝沼のぶどう棚


ぶどうがたわわに実る、つまり収穫量が多くなるであろうことから考えても棚栽培には利点があり、
果実にキズがついたりもしにくかろうと思うところながら、
「甲斐の徳本」さんに教えてもらうまではそうではなかったわけで、
勝沼のぶどう農家の人たちにはコロンブスの卵的なことではなかったろうかと思うところです。


ところで、この「甲斐の徳本」なる御仁でありますが、いったい誰よ?でありますね。
どうやら永田徳本なる諸国放浪の医師であったといいます。


たまたま甲州に住まっていた時期が長いとかで、「甲斐の徳本」なる呼び名もあるそうですけれど、
「徳本」が苗字ではなく名前であった、そして職業は医師であったとなってきますと、
「徳本」はきっと音読みであろうと想像できようかと。
つまり「トクモト」ではなく「トクホン」と読むのでありますよ。


ここで敢えてカタカタを使いましたので、「これは?!」と思った方がおいででしょう。
そうなんですよね、昔からおじいちゃん、おばあちゃんの背中や肩に貼ってあるのを

見かけることしばし、膏薬の「トクホン」、あれはこの放浪の医師の名に由来しているのでありました。


もっとも徳本先生と株式会社トクホンとは直接的に何の関係もないのですが、
やがてロングセラー商品となる新たな膏薬の商品名を考えているときに、
たまたま永田徳本のことを知り、肖ることにしたてなことのようで。


一説によれば、武田信玄の主治医であったとか、

徳川二代将軍秀忠の病を治したとか伝わる、伝説の名医であるらしい永田徳本。
単に膏薬の商品名としての印象しかないのを改めないといけませんですなあ。


甲斐の徳本